人が五人集まればうまい具合にひとかたまりになる、そんな経験則を持っている。多様性という意味だ。何が何でもこうしたいと主張する人、周りの成り行きを見てうまく折衷案を作ろうとする人。ストレートではないが密かに自分のやりたい方向に持っていこうとする人、何も主張せず流される人、そして声が大きくて話をまとめる人。
そこはとあるモノづくりの工場だった。ただの工場ではない。アカマツの林の中に湧き出る地下水を使い、天然水や洋酒を作っていた。その製造過程が良い観光資源になる。毎正時になると駅前から観光バスがやってくるほどだ。
観光に来たお客様が安全にこの施設そのものや観光ツアーを楽しんでもらえるよう、辺り一帯の警備とツアーへ帯同する人員が必要だった。自分が履歴書を出したのはそんなパート先だった。
せっかく観光に来たのだから僕はその施設でお客様に目一杯楽しんでもらいたかった。だから積極的にお客様に話しかけて場を盛り上げた。知らない人との会話ほど自分を刺激するものはない。必ず知らない世界を何か教えてくれるからだ。外国人も大歓迎。錆びついた英語を思い出しながら話しかける。すると自分の中の幸せスイッチが入る。
しかし僕は度が過ぎたのだろう。お客様の相手ではなく、もっと警備に力を入れるようにと監督者から注意された。
何がいけないのだ。ここで楽しい思いをすればまたリピートもあるだろうに。しかし世の中には「こうすれば良くなる」という思いなど不要で、決まったことを正しくやればよいという世界もある。僕はそれを知った。
監督の方は冒頭に挙げたどのタイプにも当てはまらないように思えた。強いて言えば、決まったことを遵守することに意義を見いだしているのだろう。
仕事仲間は皆社会経験も深く、誰もが職場に嫌気を感じていた。しかしそこは大人の顔をして乗り切っていた。人間五人、それぞれの形で耐えていた。僕も直線的な物の言い方だけなら何ということもない。しかし「お客様のため」という根本的なところが合わないのだ。
会社員時代のマネジメント研修で「多方向ヒアリング」というものがあった。誰が答えたのかは分からないが、自分を部下なり上司なり周りの人なりが評価するというものだった。「どんな人か?」というその答えは意外だった。てっきり周りの意見をまとめて折衷案を出す人だと思っていたら違った。ストレートではなく密かに自分のやりたい方向に持っていく人、そんな結果だった。
仕方ないなと思いそのパートを辞めたのも、自分のそんな第三者評価を考えれば頷ける。今は歳をとってしまい、密かに持って行くのではなく、直ちに持って行くようになってしまったようだ。
五人の人間像は自分のそんな動きを見てどう思ったのかは分からない。仕方ない職場だからわかるよ、と思っているのか、哀れんでいるのか、それとも割り切っているのか。皆誰も自分より十歳以上年上だった。そんな人たちの集いはまだまだそのまま回っているようだ。
まだまだ若いのかな?そう僕は自戒する。僕は多くのことをそんな集いから学んだ。仕事を辞めるときに仲間はこう言ってくれた。「やることがなかったら、またおいでよ」と。
それもありかもしれない。あれから時が経ち、少しは変わったかもしれないから。結局群れを飛び出したファーストペンギンだったかもしれぬが、また戻るかもしれない。それもまた経験だろう。
相変わらず僕は街の中で行き合った人たちに話しかけている。日本語で、そして錆びた英語で。それは僕に、やはり楽しさと力をくれる。
どこに進もうと自由だ。ただ、人間はとても面白い。
