日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

風に揺れる耳

それは決してそよ風ではなかった。高速道路を走るトラックの荷台だった。幌はかかっているが捲れた布から大きな塊が見えた。番号札のついた耳が風に揺れていた。黒い肌の中に埋まったような真っ黒な瞳が少し動いた。高原のそよ風なら気持ちよかろう。しかしそこは幹線の高速道路だった。トラックは力強いトルクで登り坂の自分の車を追い越していった。僕はなぜかクルーズ・コントロールのスイッチを切った。トラックは直ぐに前方に遠ざかって行った。

もう十年も前だろうか、僕は友とともにクロスカントリースキーを履いて山道を登山していた。そこは冬季閉鎖された林道で真冬にスキーを履いて歩く者など皆無だった。仮に居るとしたら酔狂ものだった。真っ白になった湿原の辺を歩く。何のトレースもない雪の上をシュッシュッと踵を上げてスキー板で歩くのは心地よかった。スキー板裏面のウロコ加工が雪をよく噛み、ストライドは雪を潰し僕は南極を歩く巨人のような気持ちだった。

しばらく歩くと向こうからエンジン音がした。スノーモービルだった。橇の方向舵にゴムのキャタピラのマシンは雪をものともせずに走ってきた。こんな山中に、と思ったがあっという間に横をすり抜けていった。その時気づいた。マシンの後部に大きな塊がブルーシートに包まれていた。そしてそこからは立派な角が出ていた。モービルのキャタピラ跡には転々と血が続いていた。僕は友と顔を見合わせた。射止めた鹿を載せている。血が出ているのは解体の後だからだろう。実際、鹿の角は不自然な形でシートから覗いていた。

果て無き雪の林道にいささか疲れていたところだった。いつもは貪欲に山頂を目指す友と自分だが何故か気勢をそがれた。まだあと四分の一は残っているね、ここから林道を外して稜線を登っていくよね。樹林帯はこれ以上にラッセルだね。そう地形図を見て話し合った。結局友と二人で踵を返した。体力というより気力が奪われた。それは間違えなく鹿の角と雪に残る血痕のせいだった。自分の登山歴の中で山頂を諦めたのは初めてだった。

違う年の五月連休にやはり山スキー北アルプスの三千メートル級山岳を目指した。無事に山頂を踏んだ。スキーで自力で登山した山の中では一番標高が高く、そこで待っていたのは純粋な喜びと達成感だった。数年前に友と共に敗退した血痕の雪山が遠くに見えた。その晩は小屋番のいる山小屋に食事付きでお世話になった。夕食に出てきたのは鹿鍋だった。臭みなど感じなかった。山頂を踏んだ歓びと疲れた体。暖かい小屋の食堂と冷えたビール。食事はとても暖まり美味しく、自分達は追加の肉をせがみご飯を何杯もお替りした。

ハンドルを握りながらため息が出た。あの黒い瞳は何を見ていたのだろう。数時間後、どこかの屠殺場で彼らは殺され、食肉に変わる。感傷に浸っても仕方がない。実際自分達は牛肉を美味しく戴く。金に糸目を付けなければ良い肉を買いステーキを喜んで食べるだろう。牛に意志があり拒むのならば、彼らの力があればトラックを停止させることもできるはずだった。しかし彼らはひどく大人しく紐につながれ風吹く幌の中でひしめき合って立っているのだった。

冬の林道でスノーモービルに載せられた鹿も誰かの栄養源になっている。結局自分達はそんなピラミッドの上に居る。食物連鎖の王国なのだから下々に気を使う必要もないはずだった。が自分の頭の中ではあの黒い体の彼らと肉屋でどさりと一塊になっているフィレ肉がどうしてもつながらない。余りにもつまらない感傷とは知っている。
日々を過ごす事とは矛盾という言葉の表裏を行ったり来たりすることだと最近思う。悲しみや同情を覚えても生きるためには食べ、さらには食べる喜びも知っている。自分が北アルプスの山小屋で食べた鹿肉はあの解体された彼だったかもしれない。あの瞳とフィレ肉は同じものなのだろうか。知りたいことは貪欲に知り、知りたくないものには蓋をする。そうやって生きている。自分はなんと都合の良い動物だろうか。ハンターは猟銃を手に獲物を殺し「感謝」して解体するという。正しく向き合う事、それが正しいのかもしれない。

長距離の運転を終えて帰宅すると家には冷凍された牛肉が残っていた。野菜と共にそれをソテーして焼き肉のたれをつけて食べた。なんともおいしかった。しかしあの瞳と、なによりも風に揺れる耳が頭から離れらない。弱い自分はやはりこうするのだろう、気持ちに蓋をするのだ。どうか罪深さを許してほしいと。

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