日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

高炉を焚く・富士二ツ塚BCスキー

樹林帯を抜けると風が強かった。西から吹いてきた。その少し前から同行の友は言う。「今日も風強いな。ピークの前で辞めてもいいね」。確かにそうだった。年に一回はこの季節に必ず登っていたのだ。山頂は隅々まで記憶に残っており今更こだわる必要もない。

「まぁ、行けるところまで行きましょう」 それは社交辞令に近かったかもしれない。心の中で思っていたのだった。「絶対にピークを踏むのだ」と。

そこまでは順調に高度を稼いでいた。スキーの裏面に貼った滑り止め「シール」は格好に雪を嚙んだ。後退することなく登ってきた。勝手知ったる地形を前に今日はどのルートで攻めるか、という心の余裕もあった。しかし森林限界を超えると辺りは一変した。これ以上のない晴天なのに烈風が雪煙を巻き起こし、しばし足が止まった。足元のシュカブラに目を奪われる余裕も無くなった。強い風を前に「遭難の第一歩は低体温症。風が全てを奪う」という山岳遭難のいろはが頭に浮かぶのだった。

先行する友の姿が風に揺れ、雪の煙に瞬時消えた。強風を前に垂直という概念が失われていた。真っすぐ立っていられないのだ。ここで負けるわけにはいかなかった。一体どこにそんな力があるのだろう、昨日まで具合が優れず寝ていたのだ。体は冷えてきたが心は負けなかった。それはあたかも鉄を溶かす高炉の如き、長い編成を引っ張る蒸気機関の如き熱量だった。原始的なエネルギーなのだと思った。体内の石炭を惜しみなく投入し山頂に立った。

一年間烈風がこの峰を飽くことなく通り過ぎるのだろう。四、五年前までは確かに在った山頂の神社の囲いが風に負け崩壊し跡形も無かった。辛うじてご神体の裏手に体を隠した。今年はことのほか風が強く山頂には雪がつかなかったのだろう。直下の鞍部からは富士山特有のざくざくした砂礫帯の中だった。

数年間この山頂を逃していた。ある年は雪が少なくスキーも使えず途中で下山した。思わぬ病で過ぐる年の春は病床だった。病が明けた翌年は残雪の沢が割れ膝下水没、山を取りやめた。「今日この山を踏めないのなら自分には明日がないのではないか」何故かわからない。しかしそんな思いが前夜から体を包んでいたのだった。毎年この季節のこの山でスキーを確かめることで五月連休で大きな山にスキーを履いて向かい合う。それが終わるとスキーは仕舞い、小さな山行を間に挟みながらテントを担いだ夏山に向け体を作っていく。今日の山は言ってみれば自分の山の暦。その第一歩だった。

宝永山の爆裂火口と富士山の山頂がすらりと高いがここまで懐に入ると遠望する姿とは全く異なる山だった。西から雲が飛んできてすぐに去っていく。一瞬たりとも同じ風景が無かった。スキーのシールを剥がしワックスを塗ると滑降だ。我が足で稼いだ標高差600m弱を一気に降り下りたい。しかし風の影響でブレイカブルクラストの斜面に足を取られしばし転倒する。テレマークターン、アルペンターン、横滑り、キックターン。悪雪に焦る必要はなかった。樹林帯に入ると雪質が変わる。再び転ぶ。それも楽しかった。

今日だけは負けるわけにはいかなかった。昔の日常を取り戻すためだった。心の高炉は熱く熱せられ最後の石炭で山頂に立った。二年経てど脳腫瘍の手術痕はいつも痺れふらつき感もある。集中力も薄くなり昼寝をしないと一日が過ぎ去らない。しかし今日はどうだろう。いつになく活動し燃えた。登る朝日と沈む夕日の間に休憩を挟まなかった。

シーズン・インは出来たようだった。しかしこれで終わりではない。弱気の虫の存在は許すが大人しくしてもらおう。まだまだ楽しまなくてはいけない。

御殿場市自衛隊駐屯地から左に見る目指す富士二ツ塚。快晴だ。

登りはじめの樹林帯はブナやミズナラの混成林を往く

樹林帯を抜けると富士山と宝永山が近い。すぐに届きそうで届かない。

山頂が近づくと風の通り道。雲が西から東へ流れていく。何をそんなに慌てるのだろう。

二組のシュプールが富士を背中に伸びた

強い風に雪が舞った。降ったのではなく積もった雪が舞うのだった。

今回のルート。下山は往路を辿ろうとしてもいつもその通りに行かない。雪の状態と林の風景に導かれるからだろう。