日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

恩人の思い出 

雪が落ち着く季節。すぐに山麓には蕗の香りが高く足元にはワラビ。もう少し立てば田代に水芭蕉が見られるだろう。

こんな季節になると胸が躍る。春を迎えると空気も日に日に緩み水ぬるむことも感じるだろう。そんな和らぎそのものが魅力的ではあるが、胸が躍る理由はもう一つある。山歩きにスキーが使えるからだ。「山スキー」とはずいぶんと乱暴なネーミングでぱっとイメージがわかないかもしれない。スキーを用いた登山 と書くとわかりやすい。

ブナやダケカンバが顔を出す尾根をスキーで登り、広大なプラトーをスキーで歩き、頂上に立つ。必ずしも夏場の登山道を通るわけでもない。多様なルートで山頂に立ち、スキー板の裏に貼っていた滑り止めの「シール」を剥がせば、あとはお楽しみの滑降になる。そこは自然の山そのもの。リフトは山頂へのアプローチに使えたらもちろんお世話にはなるものの、基本は景観を壊すスキー場も煩いゲレンデの音楽も何もない。尾根を一つ間違えると全く違うルートになる。進む速度が早いのでルートミスはクリティカル。楽しいが気が抜けない。

山スキー道具は、登る・歩くときは踵を開放して、滑る時は固定してアルペンターンで降りる「山スキー」と、常時カカトを開放して、登り・歩き・滑りをシームレスでカバーする「テレマークスキー」の2つのスタイルがある。

学生時代はゲレンデで自己流で下手くそなアルペンスキーばかりやっていた。が、バブルで乱開発されたスキー場もブームが去り一気に衰退したのと同じ頃、自分も又リフトに乗って降りてくるだけの世界に何処かで飽きたようだ。しかしバックカントリーを楽しむためのテレマークスキーを知り、スキーの世界に戻ってきた。もう20年は経つだろう。今でも楽しみで仕方がない。踵の上がるスキーで雪のブナ林を歩いたときの開放感は半端なかった。のめり込むのに時間はかからなかった。

知らない世界は自己流というわけにもいかなかった。よい入門書があったのだ。目白でクライミングバックカントリースキー店を営む北田啓朗氏が著した「スキーツアーのススメ(バックカントリースキー大全)・山と渓谷社」、「スキーツアー・入門とガイド・山と渓谷社」だった。書中で北田さんが推していたのは踵を固定しないテレマークスキーだった。テレマークは感性のスキー、山スキーは理性のスキー。そう北田さんはまとめられていた。自分はその言葉と、テレマークターンというプリミティブで目新しい技術に興味を持った。北田さんの考えに自分の気持ちがピタリとはまった。

良書に巡り会い、新しい世界を知った。バックカントリースキーに関しては、面識もない北田さんは自分にとって扉を開いてくれた恩人と言えた。

* *

自己流に始めたテレマークスキー。当時は動画サイトもなく、北田さんの書と稀にゲレンデで見かけるテレマーカーの動作を参考にした。テレマークスクールがあると知り、長野の車山エリアのスキー場に向かい、半日カナダ人の講師についたこともあった。

滑りに関しては、結局無手勝流の域を出ていない。テレマークターンはへっぴり腰だ。しかし踵が開放されていてもアルペンターンも出来る事に気づき、これなら使えると、積極的にテレマーク装備で山スキーを始めたのだった。良き友にも恵まれた。東北の山々、上越の山々、信越の山々。簡単なルートでも滑る場所は無数にあった。

ある年のゴールデンウイーク。いつもの山スキー仲間と会津駒ヶ岳の登頂を目指した。しばらくは雪のない登山道をシートラーゲンで登った。雪が出始めてシュルンドが口を開く雪壁を登り切ってからは明瞭な稜線となりブナ林にコメツガが混じった。シールが良くはかどった。木々の向こうに明日登る山頂が遠望でき胸も弾んだ。雪の砂漠の様なプラトーを詰めて裏手に山小屋があった。夜は冷えたが満員に近い登山者で小屋は暖かかった。

朝食の時間帯に小屋番が「ある人」の寝床を探しに来た。スキーアイゼンの付け方が分からない登山者がいるので面倒見てくれないか、と言っている。隣の布団集団から一人が出ていきしばらくして戻ってきた。「ウチで扱ってない商品だったので手間取った」と言われていたその「ある人」のいるパーティと、朝食の自炊部屋で相席となった。

どこかで見た顔と思っていたら頭の中で電気が灯った。我が愛読書の中表紙に印刷されているお顔ではないか!本を開く度に拝見していたのだから忘れるわけもない。自分をテレマークスキーに、バックカントリースキーに、いざなってくれた書籍の著者。北田啓朗さんとの、それがたった一度の出会いだった。

北田さんは気さくだった。自分が北田さんの本で山スキーの世界に入った事を伝えるとにこやかに喜んで頂き、またサインが欲しいという自分の依頼にも笑顔で応えてくれた。

過去形で書きたくはなかった。北田さんの訃報に触れたのは随分と遅れてつい数か月前だった。この年始に北田さんは尾瀬の山(大行山)へのスキーツアー中に逝去された。そんなネットの記事を見て呆然となった。いつか北田さんのお店に伺い10年近く前に頂いたサインをお見せし、あれからも飽くことなく自分も下手くそながらテレマークを楽しんでいることのお礼を伝えたかったのだ。唯一の救いは、北田さんは決して雪崩やルートミスでの滑落などで亡くなられた事ではないという事。心臓の発作だったと書かれていた。

心臓の病だから救いと言うのは不謹慎だ。しかしルートミスや雪崩では亡くならなかった。北田さんの書を読んでいる限りそれはあり得ない事とはわかっていた。それが自分にとって救済だった。

いまでも思い出す。車座のストーブの中心で笑いながら温かいものを仲間内で回して飲まれていた北田さん。自分達よりも少し後にゆっくり登られてきた山頂で、さっとシールを片足立ちで外して、颯爽と谷に向けて滑り出した姿。あの軽快で舞うようなテレマークターンと会津駒ケ岳の大斜面に刻まれた見事なシュプールを。

良い手持ちの紙が無かったので手帳の切れ端にささっと書いていただいたサイン。「えー、サイン書くの?」とは少しのはにかみもあったのだろう。交わされたわずかな言葉の思い出とともにそんな粗末な紙に書かれたサインは帰宅してすぐに北田さんの著書に挟んだのだった。今度店に行きいつでも色紙にサインを頂けると思っていたのだ。

残されたサインには「テレマーク楽しんでください!」。そしてご本人の署名がある。一度セロテープで張ったが経年で剥がれかけていた。何年か前に慌てて糊で貼り直したのだった。併せて書かれていた日付は2014年5月4日とある。

また数カ月もすれば雪解けの路傍に蕗は早春の香りを放ち、清い水には水芭蕉が映えるだろう。そんな季節を前にして、はて自分は何をよすがに滑るのだろう。

北田さんの著作は自分の知らない世界を教えてくれた。以来、夢中だ。

最初に手にした書に、メモ帳の切れ端に書いていただいたサインを大切に挟んで糊付けしている。見開きを開けると僅かなひと時に交わした会話、はにかんだ笑顔が思い出される。ここに書かれている通り今もテレマークを「楽しんでいます。」

北田さんパーティと朝食を共にしたのち、一足早くスキーにシールを貼り山頂を目指した。山頂から滑り出した北田さんとパーティの見事なテレマークの滑りを忘れる事は出来ない。