下山路だった。目指した山頂は先程まで足元にあった。都心を遠望できる冬枯れの低山だった。登山はピークを踏むばかりでなく無事に下山することで完結する。山頂を踏むと誰もが安心し何かを成し遂げた気がするのだろうか、道間違い、滑落、疲労による行動不能、多くの山の事故は下山時に起きるという。
尾根を下っていた。ある地点で踏み跡は南と東に分岐していた。南の道は山肌をやや強引に降りてすぐに里に降りるものだった。東の道は尾根を忠実にトレースする距離のある道だった。分岐で迷った。どちらに行くのか。何時もなら里にすぐに下りられる道を選ぶ。目標を果たした以上早く安全を確保したいからだ。しかし今日は雑木林の中、山道を長く歩きたかった。結局左手の道を選んだ。
ゆっくりとした尾根道は考え事をするのには相応しい。踏み跡はゆるい上下を繰り返しながら確実に下がっていた。枯れ葉と枯れ枝を踏む心地が良い。太陽は西に傾きつつある。右肩に射し込む雑木林の木漏れ日は暖かく今が真冬であることを瞬時忘れさせてくれた。
考えるべきことが多かった。この半年で起きたことが頭の中を行きつ戻りつしていた。どれも整理がつかなかった。淡々と歩きながら思いを馳せた。歩けど歩けど正解が見つからないのだった。それが僕を苦しめた。信仰があれば何か救いがあるのだろうか。
逃げ道は一つだけだった。それを忘れることだ。悩んでも仕方のないことは脳の扉を開けて外に放り出す。尾根道の左手に谷があった。ここに降った雨は斜面を流れ谷に落ちてそこで流れを作る。流れは川となり大いなる海へ至る。全てはそこを転がり落ちるのが良い。
里に降りた。先程の分岐の道を降りても結局はここに落ち着くのだった。右に行こうが左に進もうが差はない。行き着くようにしかならない。
生きるとは解のない道を何かを頼りに進むことなのだろうか。暗中模索か。なにをよすがにすればよいのか。なんの答えも見つからないまま電車にのった。
山を歩いたという心地よい疲労感が、自分を充足感の中に埋没させてくれた。