日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ひとごろし

テレビをつける。ドラマをやっている。ほぼ必ず人が殺される。犯人は誰かと謎とき。その背景にある人間関係と彩を探る。犯人が捕まる場合も、犯人もまた死ぬ場合があるだろう。大河ドラマでも死ぬだろう。こちらは景気よく大量死するだろう。武将の生涯を描くことが多いだろうからそうなるのだろう。だろう、と言う推量の助動詞を続けざまに書くのは、自分は余りその手のドラマを見ないために推測の域を出ないからだった。年齢のせいか、人が殺されるドラマを見ていてあまり楽しくない。むしろシーンに嫌悪もある。やはり幸福で泣けるドラマが好きだ。

原作者も監督も、きっとそれらしく死ねるようにシナリオを書いて演技をさせるのだろう。「名斬られ役」と呼ばれる俳優さんもかつては居た。故・松田優作の「なんじゃこりゃー」は記憶に残る。小説にも死は出てくるが映像はなくそれは読み手の想像力がイメージを膨らますのだろう。もちろんそれも作家の手のひらの上の世界だ。

これまで人を殺したことはなかった。自称平和主義者なのだ。しかし今回はとうとう手を染めてしまった。警察に自首すべきだろうか。

とある文芸賞への応募作を書いていた。当選は夢のまた夢。過去も最終選考落ちが続いていた。飽きもせずに書くのは学習効果がないのか、書くことが好きなのかのどちらかだろう。今回書いていた文章は八千字程度の掌編だった。もともとは違う作品を応募用に書いていた。しかしどうも納得できない。頭の中で自然にイメージがまとまらないものを無理やり膨らますとこうなってしまう。これはお倉入りにしようと、締め切り間近になり一から新しいものを書いた。短時間で仕上げるせいか、何かわかりやすい結末にせざるを得なかった。そのために登場人物に死んでもらうことにした。

書いたあとに何度か読み返した。そして応募サイトに投稿した。その後何故か胸が痛むのだった。何故彼に死んでもらう必要があったのか。違う結末もあったのではないか。死は小説の中では決定的な切り札になる。どんな筋書きもそれを描いたら終わる。あとは話の伏線の後始末だ。カードゲームのワイルドカードに近い。完成を急ぐあまりに容易な展開を選んだのか。それにしてもやり用はなかったのか。人殺しは重罪だ。それをわずか数行の文字でそう簡単に実行してよいのか。死は傍から見て現象として知ってはいるが自身に置き換えると想像できない。だから容易に描けない。それも想像を交える。

書いたものは手を離れた。独り歩きをするだろう。只幸いなのは、それは誰の目に触れる事もなくひっそりと放置されるだろうことだけだった。しかし自分の中では、書いたものは我が子であり、しっかり記憶に残る。ひとごろしはこれ限り。いつの日か心から満足できる、誰も死なずに皆が幸せになれるようなものを書いてみたいと思うのだった。

原稿用紙に打ち出して見直していく。安易なストーリー展開の為に禁断の実を食べてしまった。もうやめようと思う。

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