日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅32 泪壷 渡辺淳一

・涙壷 渡辺淳一 講談社 2001年

これが「あたるといいな」、そう思って手にした。やや急いでいたため冒頭数ページをパラパラめくって貸本カウンターへ向かった。

渡辺淳一を夢中で読んだ時期は高校か大学の頃だろう。それは彼のキャリアの中では初期の作品だった。外科医でもあった同氏は初期に医療を扱った小説を多く残している。自分はそれに熱中した。外科医として脳腫瘍の母の脳にメスを入れる「死化粧」や心臓移植を描いた書いた「ダブル・ハート」。このあたりに惹き込まれた。使命と葛藤。リアリズムとリリシズムが共存している世界だった。

人間だれしも多面性がある。作家も同様だろう。いつしか渡辺淳一の作品は男女の性愛を描くものが増えた。作家の手にかかればどろどろとした情念も濃厚な愛撫も美しく切ないものになる。しかしこちらには全く熱中出来なかった。自分に縁がなく同化できない世界だった。男女の愛憎と性愛を描くのなら立原正秋が好きだ。彼の作品の根底にある無常感には痙直な筆致とあわせて惹かれる。彼の感覚が乾いているのなら渡辺淳一は濡れている。作家が如何にイマジネーションを膨らませても実体験もない世界では何も書けまい。その意味で写真で見る二枚目な彼は様々な体験をしたのだろうな、と羨ましい。が初期のあのシャープで透明な感性は魅力的だった。

手にした本は短編集だった。愛読していた初期の作品も小品集だった。これなら不快にならずに読めるかと思った。

主題作は癌で死んだ妻の骨を素材に混ぜて焼いた壷の話だった。自らの死を悟った妻は遺骨をくだいて土に混ぜ壷を焼いてくれと夫に言い残す。不思議な色合いだという。確かに良い壷になったが部屋に残したその壷の存在感は大きかった。やもめになった主人公が何度か後妻を得ようとするが性愛の場になると主人公やその相手の頭の中に壷が浮かび相手を阻害し成就しない。まるで見ているかのように。気味悪い話だった。現実を見れば再婚した夫婦は多くいらっしゃる。では彼らがその前夫前妻の幻影とどう戦っているのか。そもそも意識するのか。それは自分には分からないが、簡単ではないのだろう。

「握る手」という掌編にも惹かれた。何処かの学会での医師の報告だった。事故で手首を落としてしまった三十五歳の男性に、心不全で死んだ四十二歳の女性の手首から手にかけてを移植するという事例だった。血管と神経を繋ぎ合わせ新しくなった男性の手は問題なく動きフォークやスプーンも使えペンも握れた。しかし一つだけ問題が在った。男性の腕に女性の手は釣り合わず手が華奢に見えること、そして男性が小用を果たそうとすると手の指は意に反し男性の性器を握りしめ放そうとしないのだ、という報告だった。あまりの話にドクターたちは驚嘆したがあとでそれは一流のジョークだったと知らされる。しかし主人公の医師は実生活で複数の女性と関係を持つ中でそれが相手に知られ嫉妬に包まれる。それは怒りに転じて女性は濃密な行為の後に主人公の性器をこんなもの!と弾くように叩き、出て行った。ドクターたちのこれからの手の移植手術を前に行われたカンファレンスで意見を求められた主人公は、「手の癖を知っておくべきですね。握るかもしれないし弾くかもしれないから」。と言う。

どちらも医療ドラマと男女の愛憎と性愛をミックスさせた作品だった。アダムとイブがお互いを意識してこのかた、男女が居たからこそ今がある。男と女とは何か。きっと渡辺淳一が追い求めたテーマはそれだったのだろう。ドクターであり自分の経験を膨らませていくだろう手法はやはり作家だった。この単行本が自分にとって「あたった」かどうかは別として、純粋に生と死を考えていたように思える彼の初期の作品集に、又触れたいと思った。

あとがきに著者が書いた一文が心に響いた。「小説は理論や理屈で書くものではなく、それらでは書きえない妖しく不思議な感性や感覚の世界を描くものである」。大賛成だ。

 

骨を混ぜて焼く、ボーン・チャイナと言うらしい。色合いが独特だという。六本の掌編集だった。

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