日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

神父様とのお話・野の花

Please accept my deepest sympathy for the passing of your family. 

余り美しい表現ではないかもしれない。仕事で付き合いのあった外国人のご家族が逝去されたとき、こんなメールを送った。文章は決して自分が考えて作ったものではなく、仕事を通じて自然に得た英文だった。日本語に直訳すると「ご家族の逝去に対する私の深い同情をどうぞ受け入れて下さい」になる。哀しみとは同情するものなのだが、その共有は受容するしないというレベルのものなのか。英語とは直截だな、とその時感じた。

大切な人が病にあるとする。重篤な病だとする。果たして僕は何ができるのだろうか。そもそも病気や死はなぜやってくるのだろうか。世の中には何故望ましくない事、悲しい事が起きるのだろう。余りに不条理だ。自分をここしばらく悩み落ち込ませているのはそんな思いだった。

カトリック信者の友人の伝手で教会に向かった。神父様は自分の悩みを聞きこう話してくださった。

今迄が平穏だったから波風が立つと不安に思うのです。健康も病も同じ存在。どうとらえるかは本人次第です。平穏無事は奇跡です。それに対してありがとうもなく、不幸が起きたら何故嘆くのでしょう。 明日の事を思いわずらっても寿命は長くなりません。野に咲く花という言葉があります。野の花はありのままです。栄華を極めたソロモン王でもその花ほど着飾っていなかったのです。花は与えられたままの環境の中で与えられたままに育ち美しく咲くのです。花はいつか捨てられるかもしれないのに。だから明日の事まで思い悩まない事です。

神父様は新約聖書マタイ福音書6章25節から34節を読んでくださった。すぐには腑に落ちなかった。ありのままをすべて受容する事の大切さを言われているのだ、と思った。

受け入れる。冒頭の英文も私の同情を受け入れてください、とある。英語はキリスト教圏の言葉だ。聖書の考えが英語を使う人のロジックの根底にあり、あのような表現になるのだろうか。

受容することは容易そうであるが出来るだろうか。人間にはあまりに知恵がある。野に咲く花のようにプレーンな状態でいられるのだろうか。

どう思うかはあなた次第です、と言われたではないか。全ては自分の手の上に、ある。

 

野に咲く花の様に。総てをありのままに受け入れる。言葉は易しいが出来るのだろうか。