日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

薄いコーヒー

♪冷えだした手のひらで包んでる紙コップは
ドーナツ屋の薄いコーヒー

ほっと一息は良いものだった。僕には陶器のカップに入った目の前のそれは歌の様には薄くは感じられなかった。

駅前のドーナツ屋は店舗統廃合だろうか、一度廃業し違うテナントが入っていた。しかしいつの間にか同じ場所で少し大きな店舗として再開店していた。

妻と知り合うきっかけはそんなドーナツ屋だった。会社の近くの交差点で、とても一人では食べられないような長い箱に入ったドーナツの袋を下げている女性が目に止まった。同じ会社の同期入社だった。小柄な彼女には不似合いに大きなドーナツ袋。見られちゃったというような笑顔は、話しかけてみようという気持ちをおこさせてくれた。数年後その女性と家庭を営んでいた。

ドーナツ屋はしかしシェルターにもなった。夫婦とはいえ他人同士。ましてや僕は天動説の男だった。自分中心で時に高圧的だった。ささいもない事から夜に喧嘩をして彼女は家を出てしまった。頭を冷やすとやはり僕が悪いのだった。当たりをつけて迎えに行った。駅前のドーナツ屋だった。

年を経ても自分の憎むべきこの性格は変わらない。むしろ更に無遠慮になったかもしれない。今ここでコーヒーを飲んでいるのは喧嘩ではないが自分の心の行き詰まりだった。やりたいことの少しも進まない。気力の上下も激しかった。所用で駅に出る必要があり、予定より一時間早く出かけたのだった。考えを纏めようとして創作ノートを持ってきたが、あまり良い案も浮かばなかった。

珈琲のカップを前にして、一体妻はどんな思いでここにいたのかと思った。その話を今聞いても、そんな事忘れたという。言いたくないのか思い出したくもないのかもしれなかった。ささいもない事とは自分の勝手な想像だったのかもしれない。自分勝手な振る舞いが、心無い言葉が彼女を傷つけたのだろう。それは僕の過ちだった。人を傷つけてはいけない。ましてや愛した人なのだから。昔の自分を恥じたがこれからも起こりえるだろうと思うと気が重い。

コペルニクスが地動説を説いた時、世の学者は笑ったという。しかし正しかったのは彼だった。世界は自分を中止には回っていない。自分がここまで無事に過ごせたのは三十年以上連れ添った妻のお陰だった。

松任谷由実が「影になって」で歌った心象風景は、恋なのか夢なのか、何かに行き詰まりを感じた女性が夜のドーナツ屋でコーヒーを前に独り自分を見つめ直している、そんな絵なのだと思う。薄いコーヒーは印象的な小道具だろう。僕はその店でドーナツを買った。二つだけで充分だった。紙袋に入れて大事に持ち帰って、すこし心を弾ませて玄関を開ける。

ドーナツ屋のコーヒーは薄くは無かった。その苦みは過去の自分の過ちを教えてくれるのだった。

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