日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅9・処女峰アンナプルナ(モーリス・エルゾーグ)

・処女峰アンナプルナ(モーリス・エリゾーグ著 近藤等訳 ちくま少年文庫 1977年)

「聞いてくれよ!今度の新製品シリーズはコードネーム「アンナプルナ」なんだよ。」東京での製品会議に出席していた社長は帰国するなりそう言った。当時会社の商品計画にはユーラシアや北米大陸の高峰の名がコードネームとして冠せられていた。「知ってるか。アンナプルナは我がフランス隊が世界初登頂したんだよ。」

図書館で、そんな山の名前の背表紙の本を見つけ出し、15年近く前のフランスのオフィスでの一シーンを思い出した。自分が転勤していた現地法人の社長は登山が趣味で富士山をスキーで登ったほどだ。家族ぐるみでパリの彼の家に呼ばれたが、書棚には山の本があった。フランス人の愛国心は広く知られる所で日系企業に籍を置いても彼も又生粋のフランス人であり、先達の偉業を誇りに思っているのだと思った。

この本は1950年に人類で初めてアンナプルナを登頂した登山隊隊長による口述手記だった。8000m級山岳に初めて人類が足を踏み入れた記録だ。

この手の山岳図書は多いがヒマラヤの高所登山は自分には縁遠く手に取ってこなかった。下山時に凍傷で手足指を失った隊長・モーリスエリゾーグは治療で入院したパリ市近郊のヌイィ市にあるアメリカンホスピタルで回想しながらこの草稿をまとめたとある。日本人医療スタッフが居たこともありセーヌ河にほど近いヌイィのこの総合病院は我が家もお世話になった。新しい建物だったが、旧館もあった。緑豊かな中庭が望める場所だった。あそこで稿を練ったのかな、と思うのだった。

1950年代、人類にはまだ多くの未踏の地があった。フランス山岳会が8000m峰としてヒマラヤのピークを狙う会合を重ねているシーンで始まっていた。膨大な手間暇かけて登山パーティを結成。現地に赴いた時点ではダウラギリに登るか、アンナプルナに登るのかも決まっていなかった。先例が無く彼らが先駆者だった。入念な周辺の偵察を行う。登るはどちらか。ルートの手がかりをつかむために対面の高地に登る。それがすでに4000mを超える場所。幾度もの偵察行を経て隊はルートが見いだせそうなアンナプルナを最終的に選ぶ。山は決めたがルート偵察が残る。ベースキャンプを円の中心とするならば、偵察隊というプローブが前方円のスポットに扇状に広がり取り付けそうなルートを「探す」。

北面氷壁をルートと決めベースキャンプ、第1キャンプから第5キャンプまで設営し、物資補給のためにメンバーとシェルパが何度も往復し高度を上げていく。90度に近い氷壁にアイゼンを効かせハーケンで確保しながら登っていく。氷壁を行っては戻り登れそうなルートを探る。少年文庫だけあり読みやすい書体であるが、凄まじい世界だった。第1次アタック隊は悪天候で後退し隊長パーティがようやく登頂する。しかし下山中にパーティの2名ともに凍傷にかかり、襲い掛かる雪崩を避け、時にクレバスでビバークしながらも満身創痍ではあれど一名も死者を出すことなくベースキャンプへ戻る。そんなところで書は終わっていた。

手足指を失いアルピニストとしては終わったが「僕たちは何の報酬なくとも行ったであろうアンナプルナ。実現は宝であり大切な一頁だった。人間の生活には他のアンナプルナがあるだろう・・」と書かれたエルゾーグ氏の最後の文章には考えさせらた。

いくら登山が好きであれ自分の登るルートはしっかり踏まれた登山道で、山中の東海道線本線のようなルートばかりだ。しかしそれなりに苦労した山もある。自分の中のアンナプルナとは何だろうか、と思った。登った山であるならば間違えなく南アルプス聖岳を挙げたい。一般ルートだが自分の体力的な厳しさと山頂の歓びは北壁のアンナプルナ登山隊と近いものに思えた。

ではこれからどんなアンナプルナが有るのだろう。それはきっと山ではないかもしれない。いや、山である必要もない。未だその存在は深い霧に包まれている。

著者のモーリス・エリゾーグはアルピニストを退き政界に入り名誉と共にあの懐かしいヌイィ市で世を去っている。さて当時の会社の新商品として計画されていたコードネーム・アンナプルナはどうなったのか。会社を辞めた今は知る由もない。しかし自分は「自分のアンナプルナ」を探したいと思っている。

1950年代、高所登山がいかなる世界だったのか、人類初の8000m峰がどれほどのものだったのか。その片鱗がうかがい知れた。自分のアンナプルナとは何だろう?