日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅7・ルーアンの丘(遠藤周作)

「知の泉」たる図書館あるいは埃を被った我が書棚。ゆっくりと利用し再び手に取ってみよう。捜している何かが、素敵な言葉が表現が、見つかるかもしれない。さて今日は…

ルーアンの丘(遠藤周作 PHP研究所 1998年)

ルーアンの丘」と言うタイトルが魅力的だった。ルーアン、現地人の発音を借りると「ルウォン」になるが、日本人にはルーアンがわかりやすい。セーヌ川の河口近く、ノルマンディのこの町は懐かしい。ノルマンディのとある小さな街に所用がありパリから時折出張した。いつもルーアンでオートルート(高速道路)を降りて渋滞の市街地を抜けてその街を目指した。新しい橋が架かり渋滞は回避されたというが、いつも混んでいた。ジャンヌダルクが処刑された地には教会があった。セーヌ川は大きく蛇行して河口の街ル・アーヴルへと続いていた。ルーアンは住んでいたパリからドーバー海峡を目指すサイクリングルートでは重要なランドマークの街でもあった。

河岸段丘の底にある街は左右どちらに進んでも丘だった。ノルマンディの海岸迄走るために自分はそんな河岸段丘を自転車で登った。この辺りがどこでもそうであるように、丘の上は広い麦畑で季節によっては菜の花が見事だった。そんな中に小さなカトリックの教会を中心にした絵画のような古い村が幾つもあった。長閑な風景と柔らかな空気が、図書館で見たこの本の表紙により即座に思い出されたのだ。

カトリックの作家、遠藤周作は自分にとっては軽妙洒脱なエッセイを書く狸里庵先生シリーズだった。中学生の頃、北杜夫のどくとるマンボウシリーズで本の楽しさを知った自分はその作家仲間である遠藤周作に必然的に辿り着いた。しかし遠藤純文学は「重かった」。その作品には「人間の原罪とは」という難しいテーマがあった。カトリック信者としてそれを追求し続けたのだろう。

フランス文学研究の志を胸に、1950年戦後初の留学生として船で渡仏する。

香港・フィリピン・コロンボ。停泊を繰り返すたびに増えてくる現地の乗客。船倉の大部屋で彼らと接し、日本がアジアの国々に何をし、彼らが日本人をどう想っているのかを知る。しかし日本への怒りや憎しみの裏に居るのは生身の人間だった。彼と同じく日本を共に旅立った同年代の青年はフランスで修道院に入り、肉親をも含む世俗と縁を切り人のために祈る道を選んでいる。「君は寂しくないのか?すべて捨てて」「人様に我をささげる。何を恐れるか」

様々な人種や価値観に触れながら「何も識らない、知ろうとしない自分」を知る。不幸が渦巻く中で自分だけ文学を志してよいのかと悩む。

フランスの大学入学までの期間を、ルーアン外れの小さな村にホームステイしフランス人の人生観を知る。様々な刺激と知己を得て大学へ。しかし結核に罹患し死の影を見る。入退院の後に志半ばで日本へ帰国する。フランスを離れる前の三日間、留学中にしりあった女学生と旅に出る。そこには恋愛感情があったが「安心おし、僕は結婚するまで決して君の体にはさわりはしない…」と話しかける。別れの夜も彼女に触れなかった自分に満足しながら彼はフランスを去る。

そんな時の流れが心象風景と美しいフランスの風景の中で書かれていた。病になってからは随筆と言うよりは日記の抜粋だった。遠藤周作の価値観は自分に近しいものがあった。いやそれはその昔自分が彼の書から得たものかもしれない。異国の地でひとり病床。当時結核と言えば難治。今でいうガンだろうか。そこにも共感があった。

人間は成熟するまでに誰もが悩むだろう。原罪の意識もない自分。何に悩んでいたのか。無力さ。矮小さ。あれほども自らを恥じた時は無かった。そしてわずかながら打破しようとも思った。

ガンになり横たわった半年は自分にとっても、再び自分を見つめ直す日々だった。話の内容は変われど自己との対話は若いときだけではないのかもしれない。

遠藤周作が73歳で生涯を閉じたのは1996年。この書は彼が20代の頃、文学研究のためにフランスへ留学した頃の書き記したものや日記を没後に再編集したものだった。目を引いた「ルーアンの丘」という題も作者によるものではなかった。しかし自分が悩んだ日々は確実にあり、また来るかもしれない。それをいつか何処かの丘で顧みるのだろうか。

素敵な題名に、喉かで花々が咲く丘の上の静かな台地を思い出すのだった。小さなカトリック教会。絵にかいたような村々。この書は何を感じさせてくれるのだろう。