妻ととある梅林に出かけた。梅祭りもあと数日だった。バスに揺られて着いた梅園。梅はまだまだ盛りだった。山の南面がまるごと大きな梅園だった。色どりも豊かで見ていて飽きない。河津桜も咲き始めていた。今日は梅の里ということで首に下げて来たのが一眼レフだった。普段は用いないレンズフードまで着けてきた。さすがに35mmフィルム機ではなくミラーレスデジタルだった。カメラという手の中に包み込める精巧なメカのカタマリが大好きでこれまで何台も手にしてきた。
広角にしたり中望遠にしたり。絞りを開けたり閉じたり。沢山撮った。しかしどれも大した写真にならないことを自分は知っていた。勿論意図的に露出をオーバーにしたりアンダーにしたりする。それはいつも通りだ。
カメラを手にする以上は被写体を浮かび上がらせたい。流れる風景を止めたい。光を操り朝焼け・夕焼けを燃やしたい。それらはシャッター速度と絞りの関係を知り、それを操作できるカメラを手にすればある程度は誰でもすぐに出来ることだ。
しかし自分のジレンマは違っていた。この写真で何を言いたい・伝えたい?そのメッセージが全く浮かばないのだった。撮れた写真は凡百の風景写真や記念写真に過ぎなかった。それらを幾ら撮ったところで何も変わらない。花が綺麗だ。浮かび上がらせてみよう。だから絞り開放。たしかにボケ写真は撮れる。素晴らしい奥行きの風景だ。すべてにピントの合った精緻な写真にしたい。だから絞りは絞り込んでぶれないシャッター速度との折衷点を探すことになる。パンフォーカスな写真が撮れる。しかしそれらは全て単なる技術論の結果だった。改めて撮れたものを見ても何の感動も湧かない。
写真の持つ力が大きいことはピューリッツァー賞をとった迫力溢れる作品や山岳写真家の山の呼吸感漂う作品を見るだけで感じる。撮影者の気持ちと言いたいことが伝わる。しかし単に絞り開放や絞り込んで撮った自分の花はなんのメッセージもないのだ。足りないのは被写体への愛だろうか?思い込みだろうか?
テレビなどで見る風景だがファッション誌のカメラマンはいつもモデルに話しかけて最良の表情を狙う。今の良いねぇ、と、傍目には求愛にすら見えそうだ。山岳写真家は好きな山を前に刻々と変わる光線を見て、ほんの一瞬、奇跡的に射し込む光をひたすら待つ。
いずれも対象に対する愛がある。その愛にはストーリーがある。その話を少しでも見る方に伝えたい。絵画と比べればすぐにわかりそうだ。絵画は対象をじっくり見る。時に心の中で話しかけてそこから想像を膨らませる。対象物への思い込みや愛を無限に広がる。だからこそ奇跡の一点が出来上がるのではなかろうか。
さて被写体に対してのそこまでの愛やストーリーをどうやって膨らませていくのだろう。己の心象風景を写し込めるようになって初めてカメラは息をして本来の実力を発揮し、作品が羽ばたくのではないか…。感性を如何に磨くのか。単なるカメラのメカに魅かれているだけではまともな写真も撮れそうにない。好きな色や構図は撮れるだろう。
欲しいカメラもレンズもあるが、今の自分には勿体ないだけだ。当分財布の紐は緩まないだろう。