日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

創作・白い光に満ちた部屋

室内が明るいのは好い事だな、と俊介はいつも思っている。

さまざまな症状と、我が子を思いやる気持ちがさして大きくない部屋を満たしている。そこは苦しみと心配、そして慈愛が交錯している部屋とも言えた。部屋が白く塗られて明るい事が救いだった。それでもしこの部屋の採光が充分でないならば、かなり陰鬱な気がするだろう。そんなふうに思いながら、「タロウ、もうすぐだよ」、と俊介は腕に抱いた暖かいかたまりを身に引き寄せて、少し腕に力を入れた。

白内障で目は曇り、加えぶるぶる震えるポメラニアン、もともと小さいのにさらに縮こまっているチワワ。全身の毛が抜けて寒そうになってしまったトイプードル、呼吸が苦しそうでお腹を大きく波打たせるパグ。明らかにヘルニアになったのだろうか、歩行が難しそうなミニチュアダックス。もう疲れたよ、と床に伏せているレトリバー。かごに入ったまま微動もしない猫。

ここしばらく病院通いだった。タロウ、それが俊介と圭子夫妻が飼っている犬だった。俊介は子供のころから犬が好きだった。四国に住む俊介の叔父の家には犬がいて、夏休みに遊びに行っては日がな庭で犬と戯れていた。犬は喜ぶと地面にお腹をこすりつけて、そのあと何故か庭を前足で掘るのだった。数年通っていると見違えるように大きく成長していた。日本犬の雑種だった。

社会人になり結婚した。二人の娘もそれぞれに進学をして親としては心配することも無くなったのだろう。子育てに手がかからなくなったころ、俊介の一家は山口に旅行した。俊介の学生時代の友人が住む街だった。友は贅沢な空間のある平屋の家を新築して、そこで犬を飼っていた。彼は犬好きで、これが三代目。今は頭が良い犬種、といわれるボーダーコリーだった。友の家を辞すときにそのボーダー君は窓枠に上体を載せて自分達を見送ってくれた。

- 犬を飼いたいな。余りに可愛すぎる。 そう俊介は口にした。
- 無理でしょ。家、どうするの。今のマンションはペット禁止でしょ。

圭子の言う通りだった。しかし同時に感じていた。つい一年前まで俊介一家は海外転勤で米国に居た。現地で借りた家は広く、一人一部屋だった。それが帰国したら狭い家に逆戻りだ。まるで蟄居を課せられているのかとも思えた。娘たちには個室が必要な年齢だ。いつまでもこのマンションに居る必要もないだろう。家を買い替えよう。やはり一軒家だ。そこなら犬も安心できるだろう、そんな思いが俊介には湧いてきた。週末はこれという目的もなくペットショップに足を運ぶことが多くなった。飼うならこの犬種と決めていたのはシーズーだった。俊介の山仲間の家には犬がいて、遊びに行くたびにその大人しさと可愛さに惹かれていた。それがシーズーだった。似た顔立ちのパグとフレンチブルドックも好みだった。しかしペットショップで運命の出会いがあった。元気なオスのシーズーが居た。犬の誕生日は俊介と同じだった。赤い糸だ、と俊介は思った。

こうして俊介は転居を決めた。まずは犬の購入を決めてから建売物件探しを始めた。安サラリーマンが精いっぱい出来る事と言えば建売住宅に手を出す事だった。山の見える手頃な場所に数軒並んだ目新しい建売住宅があった。その一つを俊介は選んだ。狭い敷地に無理やり立てて坪数を増やしたた三階建ての家だった。そこに迎い入れた小さくてころころとした子犬をタロウと名付けたのは長女だった。

成熟しかけた家族にタロウは新しい風を、はずむような楽しさを運んできた。年齢的に親に反抗しこもりがちになる娘たちの成長時期をタロウが見事に透明で明るいものにしてくれたようだった。タロウは娘たちの部屋を自由に行き来した。また俊介はその頃から会社の中でより上位の管理職について、仕事のストレスが増えた。帰宅して階段の上からワンと吠えて顔を出すタロウを見て、俊介は破顔一笑。一日の疲れも飛ぶな、と圭子に言う。何よりも圭子がタロウを可愛がった。自分が生んだ二人の娘はもう青年期だった。遅く生まれた息子、そんな風に彼女は接していた。圭子は日がなタロウの服を編んでいた。

年月の経過は早く、長女は社会人3年目に長期出張で家を離れた。出張明けからは独りでアパートを都内に借りた。一人住まいの気楽さを知ってやめられなかったのだろう。その数年後に結婚をして新居を構えた。次女は大学に進み、就活が目の前だった。俊介といえば、職場で逆パワハラにあいメンタルを害し、志願して道を外してもらっていた。毎日精魂尽き果てた顔で帰ってくる俊介を迎えたのは圭子であり、タロウだった。会社にとって戦力外となった俊介にはできれば他で頑張ってもらえぬだろうか、と退職勧告があり、条件と自分の年齢を考え俊介はそれを受諾した。退職の花束を持って帰宅した時もタロウは尻尾を振って迎えてくれた。

ある日を境に、きっとタロウは感じたことと思う。自分の住まいに居る人が急に減ったと。それは正しかった。長女に続き次女も社会人になり他県の配属先に引っ越した。当の俊介は病で倒れ入院し半年近く家に戻れなくなった。俊介の治療が終わり帰宅を許された時、玄関を開けると階段の上からいつも通りに顔を出すタロウが居た。見た目は貧相になったはずの自分でも、タロウにはわかるのだろう、そう俊介は思った。尻尾を大きく振るタロウを思いきり抱き締めると彼は苦しそうな唸り声を出すのだった。

ペットショップで隣の犬とじゃれていたタロウもいつか高齢犬と言われる年齢になっていた。ある年を境に俊介も圭子もタロウの年齢を人間のそれに換算するのをやめていた。圭子はタロウは決して歳を取らないのよ、と言う始末だった。しかし現実は違っていた。加齢によるのか分からぬがある日にタロウは数日間におよび激しい痙攣に襲われ、そのまま入院した。脳の疾患であることは事実だが原因を調べるには全身麻酔も必要で、また仮に分かったとしても犬の脳の手術など手の打ちようもなかった。

数日間生死をさ迷ったタロウはこちら側に戻ってきた。帰宅後すぐにはまともに四本足で歩けなかったがそれもしばらくの間だった。タロウは脳疾患の薬と言う事でステロイド、それに抗痙攣剤が処方されていた。何より困ったことはこれまでは散歩でこなしていた糞尿の制御が効かなくなったことだ。俊介が買ってきたペットオムツを圭子はマメに、そして丁寧に、自分が決めた手順通りに交換するのだった。しかし時としてそれは彼女にストレスを与えているようだった。正直俊介は思う。全く大変だな。頼むから手離れ良くならんかな。妻も妻だ。そこまでかっちりとやらなくてもいいだろうに。手を抜けばいいだろうに。

そうはいっても床に漏らされるのもたまらない。少しだけいら立つ俊介がオムツを交換すると要領が悪く、必ず放尿が床に付着した。その都度圭子は目を三角にして怒る。

ー 貴方はきちんとした仕事をしないのよ。いつも。
ー そりゃ悪かったな。どうせ会社から烙印を押されているくらいの男だよ。出来が悪いんだよ

二人の会話が違う方向に、こうしてズレていくのだった。しかしそんな言い合いを何処かで座って黙ってみている視線を俊介は感じていた。シーズーは目の玉がとても大きい。ほとんどが黒目で上目遣いのときに僅かに白目が三日月のように出現する、そこがとてもチャーミングだ。

ー ああ、タロウすまなかったな。つまらんことでな、喧嘩していたんだよ。

俺の用事は済んだな、そう言うようにタロウは踵を返して金魚のようなお尻を振りながら去っていく。実際そうだった。彼が我が家で果たしてくれていた役割は、皆を笑顔にして笑いをくれる事だった。争いの無益を彼はいつも体で教えていてくれた。

病み上がりも回復したかのようなタロウだが、入院前に似た症状が少し見られたので再び動物病院を訪れた。この白い待合室に、いったい何度来たのだろう。タロウが若い頃に来たのは、こたつの上にあった抗生物質-それは娘が耳にあけたピアス穴が化膿したための薬だった-を間違って飲んだり、床に落ちていたチョコレートを食べたり、とそんな人間の不注意と彼の旺盛な食欲に起因するものだった。しかしだんだんと捻挫での来院、血液データの悪化による来院と、通院内容も変わってきていた。青年期から壮年期に、そして高齢期に、とタロウは必要以上に早く歩んでいるようだった。

今日も白い待合室には南側の摺りガラスから入り込む光が眩しかった。そこに何匹もの犬猫が診察を待っていたのだった。どの犬猫も苦しそうに鳴き震えている。タロウも決してここが好きではなく、この白い部屋に来ると脈拍があがり不安定になっていた。しかし今日はただ俊介の腕の中で丸まっているだけだった。そんな「我が子」たちを飼い主たちは心配げに抱きかかえ、診察に連れ去られると閉じたその扉をただ見ている。扉が開いて女性一人で戻ってきた。「入院だって」そう、待っていた夫に告げていた。次に出てきた犬ははいこれで大丈夫ですよ、告げられていた。ここは苦しみと心配そして慈愛の部屋なのだ。部屋が明るいのが幸いしてそれらの絡まった感情は目に見えないだけだった。

タロウの診察の番だった。圭子が抱きかかえて診察へ連れて行った。これしかできる事は無いのだ、と圭子はタロウをしっかり強く抱きしめたようだった。

白い光に満ちた部屋に南から差す陽の光が階段に置かれた犬の置物の影を作っていた。シェパードが上を向いて飼い主を見つめている、そんな造りの置物だった。作り物にかかわらず、ああ可愛い犬だな、とその眼の光に俊介は惹かれた。診察室の扉が開き、少しだけ尻尾を揺らしているタロウが向こうに見えた。

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