日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

河岸を変える

河岸(かし)を変えるか、そんな言葉は今も生きているのだろうか。しかし自分は時々使う。友人と再会し散々飲み少し遅れてきた仲間が参加した辺りで趣向の違う店に行きたくなる。そんな時に、どれ河岸を変えてやり直そうか。というパターンだろう。改めて乾杯し、仲間内の話は再び新たに盛り上がるわけだ。

先日御茶ノ水駅から裏道を歩いて神保町に向かおうとしたが、そこにあったホテルを見て「あ、ここは「缶詰」名所だよな」と思った。「山の上ホテル」だった。ヒルトップカフェというお洒落な名前のカフェが一階にあり、その前に神保町へ下りていく坂道は緑豊かな公園になっている。締め切り間近な作家が、彼らの表現を借りるならば「編集者に拉致されて」ホテルなどに宿泊させられて強制的に原稿の追い込みをかけさせられる、世にいう「缶詰」になるという話をよく本で読んだ。多くの作家が利用したことで有名だからこのホテルに関しては自発的に缶詰めになった作家もいたのだろう。

しかし缶詰は本当に効果があるのだろうか。ルポライターやノンフィクション作家ならある程度は効果が期待できそうに思える。コラージュのように頭の中に散っている情報を繋いでまとめていく事が多そうでディスターブされない環境は大切に思えるからだ。しかしエッセイストやフィクション作家となると、まずは頭の中で稿の全体像を膨らませなくてはいけないのではないだろうか。空想を想像力で膨らませてつじつまの合うように文章にしていくのではないか。するとホテルの白い壁や小さな窓の中から外を見るだけの小部屋でそれが可能なのか、と思うのだった。

取るに足らないブログを書くだけにせよ自分は家にいると考えに行き詰まる。そこで戸外に出る。散歩をすれば勝手知ったる家の近所にもクヌギもあれば桜もある。人様の庭にはこの季節はツツジが咲く。ハクセキレイメジロも飛んでくる。先週までの空き地は今日は工事が入っている。そんな風に必ず何かの変化があるし、その裏には自然の道理なり人間の営為を感じ取る。すると時折頭の中にほんの少しだけアイデアが浮かんでくる。それを忘れぬように小さなメモ帳に書き記して帰宅する。自己満足で駄文を書く人間ですらこうなのだから、それを生業とする作家さんは一体どうやって物を書くエネルギーを捻出しているのか、興味がある。

妻と愛犬と共に、ふらりと近所のカフェに行った。ウッドデッキがあり犬も歓迎してくれる店だ。ただの珈琲を注文するのにも馴染のない符丁を多用し強制させられるので実はこの店は苦手なのだ。がウッドデッキの存在と珈琲一杯で長居しても何も言わない点が心安く、それだけに魅かれてやってくる。目の前には四車線の国道があるので静かではない。緑とて庭木に広葉樹の幼木が申し訳なくある程度だ。

ノートPCを広げて考え中の稿を手直しした。家にいては全く進まないのだが普段よりキーボードが進み少し方向付けが出来たようだった。国道の喧騒はあるが吹く風と木々のシルエットがその不快感を凌駕しているおかげだった。妻はスマホを操り、犬はデッキの木の感覚が良いのか気持ちよさそうに体を投げている。妻のマグカップは減ってきたのでスイーツを買ってきてとりとめもない話をする。駐車料金無料の時間が終わりそうなので引き上げた。

喧騒の中とは言え河岸を変えたのはやはり良い事だった。しかし作家さんはホテルの「缶詰」ででも仕上げてしまうのだから素晴らしい。凡人の自分はそうもいかない。心地よく揺れる風、緑の小道が続き木漏れ日の中をのんびり歩く。そう、逍遥するならばブクブクと何かが浮かんで葉が舞うがごとくに全体像が纏まるのではないか。そんな場所があるならばいつでもそこに行きたいものだ。そんな想像をするだけでも楽しい。

人出の多い道路際のカフェでも僅かな緑と吹く風で少なくとも自宅とは違う。河岸を変える甲斐もあるだろう。