日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

腕の中の重さ

「ガターン」。大きな音とともに横の机の椅子がひっくり返った。黒い学生服のM君が椅子のまま仰向けにひっくり返ったのだった。彼は硬直して歯を食いしばっている。口からは泡を吹いた。隣席のN君は慣れた調子で口にハンケチを突っ込んだ。しばし小刻みに震えた後M君はぐったりと意識を失った。教室の床に池が出来たのはM君の失禁だった。

それが「てんかん」という病とその時知った。中学1年生。クラス編成の時から小柄なM君はあまり人とも馴染めずに背の高いN君がいつも寄り添っていた。Mとは小学生からのクラスメートだから面倒見るのは慣れているんだ、そうN君は言うのだった。

その後も、まれにM君は授業中にぶっ倒れた。中学校には養護クラスもあったがM君には無縁だった。いつかクラスは席替えや行事などもM君とN君を中心にしたコミュニティになっていた。

半月ほど前だった。自分の椅子の隣で寝ているはずの犬が、突然上下の顎を慌ただしく動かし始め、口から泡を吹いてぐるぐる歩いた。そして大便と小便を失禁していた。ただ事ではない、と思ったが、まずは粗相を片付けて様子を見た。暫くしてからの彼はいつもの状態だった。なんなのだろう。その後は何にもなかったのだ。

数か月して再び同じ状態だった。まずは陰茎から出血があった。尿路結石だろうか。しかしその翌日何度か痙攣が出て泡を吹き糞尿を巻きながら彼は部屋中をよろよろ彷徨するのだった。ようやく50年近く前の記憶が目の前の光景と結びついた。これはてんかんの痙攣だろうと。

直ぐに動物病院に連れて行った。撮影したビデオを見てあきらかにこれは痙攣だと言われ、その場で彼は入院となった。毎日状態を電話で聴いた。二日間は痙攣が時折起きたようだが三日目からは安定しているという事だった。

退院の際に彼を抱きカートに載せた。あれ、と思うほど軽かった。自宅の床に放しても彼はその場で座り込んだ。これまで彼はトイレは散歩まで我慢しどうしてもの際は吠えて尿意・便意を伝えていた。だがこれでは散歩は到底出来そうにない。ペットオムツを履かせ、彼はそのまま眠った。翌朝すべての糞尿はオムツの中だった。

餌を食べる事も水を飲むことも困難だった。スポイトで水を口に入れスプーンでエサを与えた。医師の診断は「脳疾患。脳出血か脳腫瘍かは全身麻酔で調べないと分からないが、この年齢での全身麻酔はリスクもある。よく考えてくださいね」そんな含みのある言葉だった。何を考えるのだろう。何らかの覚悟をしろと言うのだろうか。先行きを考え暗い気持だ。

徐々に体力を取り戻してきたのか数日で何とか立ちよろよろと歩けるようになった。歩みが覚束ないのは処方された抗けいれん剤の影響とすぐにわかった。

何の因果だろう、すべて俺と同じではないか! 彼も自分も同じウサギ年。同じ誕生日。そこに縁を感じて彼と共に生活を始めたのだが、まさか脳疾患まで同じだった。自分は脳腫瘍だが彼も詳細不明なるも脳疾患だ。脳の病には抗けいれん剤の服用は不可避だ。自分も一日二錠を欠かさず飲む。痙攣は一度も経験したことが無いがリスク回避だ。服用するとふらつきとだるさが生じる。しかし医師からは止める許可は下りない。 

「どうしたんだよ、お前。情けないのは自分だけで充分なのに」

相変わらず糞尿を垂れ流す彼に対してやがてイラつきも感じるようになった。餌を前にしてお手をして伏せるというルーチンももう忘れたようだ。痙攣は脳細胞の異常な電気信号が発端だ。発作は脳細胞に大きなダメージを与えるという。そうとすれば仕方なかった。

経過観察で動物病院へ。診察室から出てきた彼を抱くと暖かく、大きな呼吸を感じた。数日の間に少し体が戻って来たのか、腕の中に重さがあった。体の匂いも毎日自分の顔をこすりつけていた時と同じだった。

その重量感は目を覚まさせるには十分だった。その匂いと温かみはたちどころに僅かの自分の考えを諫めた。彼はとあるペットショップのショーケースにいた。探していた犬種だった。犬を飼いたくて仕方が無かった。丸くて小さく元気だった。それから10年以上、我が家の一員として過ごしてくれた。病で半年家を離れた時に帰宅すると千切れるばかりに尻尾を振ってくれたのだ。そこにイラつくなど、何を考えているのだろう。脳の病でダメージがあり、それでも退院できれば十分ではないか。ここにいてくれることが奇跡ではないか。半年以上治療に費やした自分も似たようなものだったろう、病院ではずっとオムツだっただろう。良かったな、お前はまずは無事だった。好きなだけ垂れ流してくれよ。オムツ兄弟よ。

・・・M君、元気か。あの頃は大変だったな。あの優しいN君は今でも君を心配してくれてるか。医学も進んだな。きっと僕と同じ薬を飲んでいるよね、僕の愛犬も同じような薬を飲み始めたよ。上手くコントロールできている…。記憶の中のM君は少し赤ら顔だった。そんな彼に無言で話しかけていた。

オムツくらいさ、幾らでも喜んで交換するよ。沢山出してくれよな。

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