日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

竹竿使い

♪たけやぁ竿だけぇ

拡声器から聞こえるその呼び声はかつてはよく町の中で聞いていた。最近は聞かなくなったように思う。

そもそも竹竿は何に使うのか、今の生活ではあまり用途も浮かばないだろう。布団や洗濯物を干すために使うのだが、今はベランダで干すことになる。狭い敷地の中に建つ建売住宅や集合住宅ならばお隣さんは直ぐそこにいる。物干し竿のサイズは自ずと決まる。あまりに長い竿だと隣家にぶち当たることもあるだろう。今では物干し竿は伸縮調整のできるステンレス製が多いのではないか。しかも防犯的要素や高層階化した住宅もあり室内干しが増えた中、果たして物干し竿の需要はどれほどあるのか。

空き地や軒下に自由に物が干せた時代、物干しといえば竹竿だった。しかしそんな竹竿を見ることも減った。今の世には帯に短し襷に長しなのだろう。ふしくれだった竹も割らない限りにささくれ立つこともない。節を中心に全体を少しでもヤスリがけをすると強くてしなる竿になる。

「たけやぁ竿だけぇ」と歌って回っていた行商の車も間違いなく竹竿売りだったろう。生活の変化にともなう需要の減少で減ったにせよ昔ながらの風景がへるのは淋しい。

山里を散歩した。そこには見事な柿の樹が何本もあった。丸いというより角張った柿が実り秋の盛りだった。詳しくないが甘柿だろう。竹竿が何本かおいてあった。案の定その全ての先端に裂け目があった。

ああ、これだったな。懐かしく手に取った。はやりこのエリアの山里だっただろう。記憶は曖昧としてしまった。二人の娘たちは上の子が小学生になったばかりだったろう。彼らと四人でこのあたりに来たのは栗拾いと柿もぎのためだった。栗など道を歩けばいくらでも拾えた。柿もぎは楽しかった。脚立を使うのか木に登るのかと心配すればさもあらん。農家さんが持ってきたのは長い竹竿だった。三メートルはあっただろうか。先端に縦に十センチ程度の切れ目が入っていた。柿の枝をそこはめ込んで竿をねじるとポキリと柿の枝が折れる。うまいもので折れた枝は柿ごと落下することもなく竹竿の割目に挟まったまま手に取れる。竹竿の持つしなりを使った技だった。

こうしていくつの柿をもいだだろう。娘たちも楽しさに熱中して上気したのだろう。終わる頃には二人の頬も柿のように赤くなっていた。

数年間そんな行楽を楽しんだ。もう彼女たちとそんな時間を過ごすこともない。彼らはそれぞれ自分たちの選んだ伴侶との家庭がある。一日を小さな輪に例えると一年はその小さな輪が回りながら大きな円となったものだろう。子どもたちはそんな円から成人・結婚の名ものとにスピンアウトして別の輪を回りながら違う円を作る。その円は時に交わり多くは個々に回っている。其れでよいのだと思う。

どうだい。柿でももぐか?と聞くと妻は遠慮した。昔を思い出すからね、というのだった。その気持ちはよく分かる。いくら竹竿を捻っても小さな子どもたちがそこにいるわけもないのだから。柿がもげたとしてもあれほど甘くはないだろう。しかしいくつもの円が回っている。彼女たちなら心配ないよ、今は何処かで柿もぎしてるかもよ。と僕は言う。

何処かでまた出会うよね。次はお正月かな?そう妻と話して山里をあとにする。え、もいでくれないの?と柿の木も竹竿も少し寂しそうだった。竹竿使いはもっといるよ、きっと楽しんでくれるよ、そうつぶやいた。

柿の実のすぐ上に割れ目を入れた竹竿を入れて捻じる。呆気なく枝は折れて竹のしなりがそのまま実を枝ごと保持する。良くできたものだと感心する。

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