別に離婚の調停をしているわけでもない。もめごとがあったわけでもない。重たい雰囲気のその建物は実に約四十年振りだった。白い建物と思っていたが記憶違いだったのか。薄茶色だった。建物を出て海を間近にする公園まで歩いた事を覚えている。
玄関の扉を開けるとそこは空港ゲートのようだった。ガードマンが数人。手荷物はX線透視装置を通す。自分自身もセキュリティゲートをくぐらないと入れない。この建物には刃物でも持ち込む輩が居るのだろうか。そんな事態を恐れているのかもしれない。
四十年以上も昔に何の罪でここに来たのだろう。罪状名は憶えていないが何をしたのかは覚えている。まだ十八歳だった。親元を離れて一人住まいを始めたばかり。自分のアパートには直ぐに大学の仲間たちが集まった。むさくるしい男ばかりで夜な夜な呑み会だった。金曜の夜になると当時流行った女子大生が多く出演する深夜番組を皆で見てはやれこの子が良い、いやこちらだ、と女性への憧れを口にしていた。もてない男が何人集まっても汗臭い空気以外はそこから生まれるものは何もなかった。
学生の飲み会では居酒屋に行く金などもない。スナック菓子とコーラ。酒は激安の甲種焼酎だった。ビールは苦いだけと思っていた当時、甘くてすぐに酔える事が大切だった。焼酎のコーラ割など今はとても飲めない。ウィスキーも安いものばかりだった。安く手早く酔えることが正義だった。
えてして酒は途中でなくなる。ある男が言うのだった。「ワシが買うてくる。駅前のコンビニじゃ」と。人の良い自分は、「頼んだで」とスクーターのキーを渡した。しかし奴は二時間経っても帰ってこなかった。三時間後に来たのは巡査だった。懐中電灯で自分の顔を照らしながら彼は僕の名を質問し、そのまま警察署迄出頭するように言った。捕まったのか。そういえばあいつは無免許だった。知っていてバイクを貸したのだった。しかもへべれけの飲酒状態だった。
警察署では彼は反省したそぶりもなく、ただ、警官相手に「お国自慢」をしていた。彼は山口県人で、長州の人間は維新での役割から地元愛がとても強い。彼に地元自慢をさせたらエンドレスだった。明るく前向きな男で署内には笑顔が在った。警察を出る頃は朝日が上がってきた。まさに一晩過ごしたのだった。
二人で横浜港の山下公園の芝生に横たわり空を見ていた。一応かしこまった部屋で訓戒を聞いたのか、彼が判事さんだったのだろう。彼には「無免許運転・飲酒運転」自分は「無免許運転ほう助」あたりが罪の名前だろう。しかし罰金も苦役もなかった。
二人とも親元を離れて四、五カ月。行き過ぎたのか。でも当時は反省は何処にもなかった。ちょっとやっちゃったな、程度だったかもしれない。しかし万一物損でも人身事故でも起こしていたらどうなったのだろう、彼も僕も違う人生を送っていたかもしれない。ちょっと怖い話だった。山下公園で飽くまで海を見て当時住んでいた神奈川県中部のアパートへ並んで戻った。
今回のその建物への用事は全く異なるものだった。父親が残した遺言状を開封する必要があった。その為にはまずそれが遺言として態をなすものかを確認し保全をする必要があった。そして安全と公正さが担保された場所で開封が必要だった。それが家庭裁判所による「遺言書の検認」だった。その為には遺言者と相続者全員の戸籍謄本が必要だった。他界している人については産まれてから死んで除籍になるまでの全戸籍が必要だった。時間をかけてようやくすべてを揃えて所定のフォームに記載して家庭裁判所で受理された。
担当をしていただいた方に、実は40年前にこんなことがありここに厄介になったのですよ。と言ったら年配の彼は笑われていた。時代が良かったですね。温情ですよ。今ならもっと厳しく処分されますから、と言われた。ちなみにその友人は、その後は某金融機関と言うお堅い仕事について、今は経営陣に名を連ねている。ああ、あれはお咎めなしか。あいつ、よかったな、俺たちは幸運だったなと思うのだった。
要件が終わるともう夕方で閉館時刻だった。「家庭裁判所」と書かれた札のゲートは閉まりかけていた。もう一度だけここに来る必要がある。そこで開封が終わると、もうここにお世話かける事もないだろう。しかし彼と又ここにきて、建物を眺めて中華街で昼飯をとり山下公園で芝生に横たわってみたいな、と思うのだった。
若くて怖いものも失うものもない良い時代だった。記憶の中の白い建物、それは自分たちが成長する中できっといつか通り過ぎるべき建物だったのだろう。何十年の年月で建物も色が変わったように、自分達もあの頃とは違う。ただ過ぎし日が鮮やかだった。