京都にいた時は「しのぶ」と呼ばれていた。神戸では「なぎさ」と名乗った。そんな人もいたのだろう。彼女はきっと夜の女。幾つもの名前は源氏名。本名と商売の名前の二本立てだったろう。
十二年もの間そう呼んでいたのだから簡単には変わらないようだった。正しい名前で呼ぶと反応するのは嬉しいがうっかり昔の名前を読んでも、なんとなくこちらを向くのは名前というよりむしろ自分達を飼い主として認識してその声に反応しているのだろうか。まぁそれも嬉しい。しかしせっかく名付けて役所に登録したのだから正しい名前で呼びたいものだ。
「ゴン」ちゃんご飯だよ。そう妻は言う。と上げ足取りが大好きな自分は待ってましたとばかり言う。ゴンちゃんはもう天国だよ。天国でもご馳走が食べられるなんて良いね、と。すると、あ「福ちゃん」と言い直す。彼は餌にありつければよいので餌の入ったボウルに一直線だ。
しかしこちらも間違える。「ゴンちゃん、散歩じゃ」と。すると家内はゴンちゃんの遺影に向かって「お散歩だって」と言うではないか。別に新しく迎えた犬が可愛くないわけない。ただ、ずっとそう呼んでいると悪気なく違う名前を呼んでしまう。これまでの子育ての中、僕も家内も時折二人の娘の名前を言い間違う事もあり名付け親にもかかわらず情けないと思うのだった。娘なら傷ついただろうが、幸いなことに愛犬はあまり気にしていないようだった。
小林旭の昭和歌謡の有名曲には、昔の名前で出ています、と題がついている。彼の昔の名前は何だろう。ブリーダー施設の廃業に伴いボランティアさんに保護された犬だった。産めよ増やせよよのブリーダーでは名前など不要だったろう。子種の管理のために記号番号くらいはついていたかもしれない。保護されてすぐにボランティア団体の手により素敵な名前で役所に登録されていた。里親トライアル期間は過ぎた。あらたに自分達がつけた名前で役所に変更登録をかけたのだった。
彼に向って話しかける。君を昔の名前、それはブリーダー施設での知らぬ名前か記号番号で呼ぶことはしないと。また愛情あるボランティアさんがつけた名前は何処かで大切にしたいと。しかし、十二年連れ添った先住犬の名前がふと出た事は聞かぬふりをしてほしい、そう言った。どこかに先住犬の名前を忘れたくないという思いもあるのだろう、それも許してほしいと。
彼はおおらかで楽天的なのだろう。散歩をすると横について従ってくれる。なぁお前は本当に良く歩くな、と話しかけるときに、喉まで上がってきた「昔の名前」を僕はごくりと飲み込んだ。