日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅39  約束の国への長い旅

●約束の国への長い旅  篠輝久著 リブリオ出版 1988年

一本のレールが続いていた。それは壁に向かっていた。壁にただ一つある門を抜けると広大な敷地だった。そこにはレンガで作ったマッチ箱のような建物がいくつも整然と並んでいる。その箱はすぐにも倒壊しそうに思えた。中に入ると陰鬱だった。この地は北緯50度はある。冬でもないのに凍てついた。

ユダヤ人を初めてそれと認識したのは三十歳代だった。マンハッタンの街頭だった。黒い帽子、黒いスーツに伸ばしたヒゲ。何から何まで黒尽くめでとても分かりやすい姿だった。自分はイスラエルパレスチナの問題をしっかり理解していない。知っていることは戦後にユダヤ人が彼の地に建国したのがイスラエル、というもの。加えエルサレムユダヤ教イスラム教、キリスト教の聖地だという事だった。そして彼らが第二次世界大戦中には大量殺人されるという災禍を経ていることは知っていた。しかしそれを学ぶのは禁忌のように思っていた。

レンガつぐりの建物の中には焼却炉があった。人間一人が入るサイズだった。それがいくつも続いていた。さながらそれは死体製造工場に思えた。そこはナチス・ドイツが作った強制収容所だった。負の遺産として今は多くの人が訪れる。陰鬱な雰囲気に吐きそうになった。

アイゼナハはドイツ中部のチューリンゲンにある。住んでいたデュッセルドルフから車で五、六時間だったか。ワイマールやアイゼナハなどのゲーテ街道を家族で辿った。ドイツに駐在して最初の旅行だった。バッハの生地アイゼナハ、彼の墓のあるライプチヒは昔から自分の憧れの街だった。そして道すがらに立ち寄ったのがブーヘンヴァルト強制収容所だった。そこはユダヤ人ばかりでなく当初は政治犯の収容所とのことだったが戦争が進むに連れユダヤ人も連行されてきたようだった。

ユダヤ人から称えられてイスラエルの切手にまでなっている日本人が居るなど知る由もなかった。無理もないだろう、彼が名誉回復されたのは彼の死後の2000年なのだから。
今では当時の外交官、杉原千畝の名を多くの人が知る。外務省の意向を無視して日本を通過して第三国へ出国させる便宜を「通過ビザ発行」という形で図り、多くのユダヤ人をヨーロッパから日本経由で脱出させた。そんな方の名前を自分が知ってから十年経たないたろうか。テレビの特集番組でみたのだった。

この本はそんな杉原氏の行いと生涯を書いた本だった。言葉遣いと漢字に振られたルビが子供向けの図書であるとわかる。きちんと知ろうと思い手にしてみた。

第二次世界大戦で日本はドイツと同盟を結んだ。そのドイツではユダヤ人を迫害していた。ダッハウザクセンハウゼンアウシュビッツなどの多くの強制収容所で彼らは最終的結末を迎える。北海に面した国リトアニアの日本領事館ならばソビエトを陸路通過させるビザを発行してくれる。ユダヤ人たちはその知らせにリトアニアを目指す。領事は何度も母国の外務省にビサ発行是非を問うが許可するはずもない。人道的判断で彼は査証のスタンプを不眠不休で押し続けた。多くのユダヤ人がそれを手にしてシベリア鉄道経由で日本に入りアメリカや他の地へ逃れる。

外務省の意向に反した行いにより彼は戦後罷免される。そんな彼を感謝の気持で時間をかけて探し出したのは他ならぬイスラエルだった。多くの同胞を救ったと彼の地で称えられて切手にもなっている。日本での名誉回復は遅すぎた感がある。

上意下達は日本の組織を成立させるための柱であっただろう。上の命令には何も考えずに従うもの。そんな考えが不正会計、資料改ざんなどいくつもの組織の不祥事として報じられていた。会社は社会的信用を失い、失地回復のために多くの社員が会社を去った。自分が勤務していた会社もそんな企業のグループ会社だった。

正義を通すことは勇気が必要だ。それは疲れるし知らぬふりをすれば済む話だ。それではいけないと知りながらも右へならえと目を向けない。自分自身そんな烏合の衆の一人に過ぎない。自分はもう社会人ではない。正義を問われることもないだろう。しかし生きる以上は何かを判断していかなくてはいけない。何をよすがにすればよいのか、それを決めるのは自分だ。なにか軸が欲しい。そんな事を子供向けの図書が気づかせてくれた。

一枚の査証が多くの人を救った。指令に背き全てが自己判断。今自分にそんなことが出来るだろうか。