日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

雲間の菩薩 

樹林帯を抜け出すと灌木帯だ。随分と手を焼かせてくれた。崩れやすい尾根道を注意して進む。足場の目安を立て露岩に手をかけて体を上げた。それ以上高い場所はここにはなかった。朝から曇っていたが薄くなった空気の狭間がゆっくりと解けた。いったん緩むと呆気なく、その網目からこぼれる光が足元に転がった小さな標識を浮かび上がらせた。かつては柱に括り付けられてたであろう木の札は風で飛ばされたのか、塗料も禿げそこに書かれた山の名前も明瞭ではなかった。しかしよく見るとそこには先輩のペンネームが記されていた。辛うじて判読できた。

縞田武弥はそれを見てああようやくここまで来ることが出来たか、とザックを下ろし呟いた。背中から上がる湯気は登路の厳しさの証左だった。実際それは長い路だった。バリエーションルートではないが幾つもの選択肢があった。沢をつめ高巻いて、鎖を掴み草付きを踏んだ。それらを選び上り進めたのは山頂を逃すまいという思いだった。

無造作に転がっている手作りの山名標識をそのままにすることは武弥には出来なかった。武弥はそれをひっそりと岩陰に戻した。ただの山の名前の標識だった。山名は誰がつけたのだろう、五穀豊穣を願い足元に氏神の森があるのだから昔から尊ばれていた山なのだろう。それら多くの峰々の名前の源を調べた山の先輩の偉業を改めて武弥はかみしめた。先輩は誰も来ないような深い山にその名と自らのペンネームを併記した小さな山名標識を残していた。彼が踏んだ山頂は六千以上あり、手にしたであろう地形図が四千枚以上あると知った時、武弥を襲ったのは眩暈だった。

先輩はその豊富な経験をデータベース化し本にしていた。更にそれらを元にある遊び方を提案し同好会が出来上がった。会員の活動結果を冊子にする、そんな玄人の遊び心を持っていた。しかしご自身の体調からその遊びに終止符を打つと言われた。

岩陰に置いた標識はもう風には飛ばされまい。なぜなら武弥がそれを引き継いだからだった。とんでもない事をやられたものだ、と武弥は思う。実地調査。作業。更にその世界を遊びに変えるという発想。先輩の頭の中は無限に思えた。テントの山の夜に見る星空だと思った。それを受け継いた自分もまたとんでもない世界に足を入れたと気づくのだった。

幾十人もの読者が会報である次の冊子を待っている。武弥はその一冊目をようやく世に出せたことに満足を覚えた。それは山頂を踏んだ歓びにまじりあい、曇り空を形作る空気の粒子に溶けていく。しかしすでにほどけた空気の綾はさらに溶出し、わずかな晴れ間を作った。そこに何かが浮かび上がるのを武弥は見た。弥勒菩薩ではないだろうか。

半跏思惟像は説いている。道は照らした.あとは進むが良いと。しかし武弥自身の身もこれからも今まで通り健やかな日々でいられるかなど誰もわからないのだ。御心のままに。とすら言っているように思う。そう、菩薩は何も口にしない。ただ頭の中で思うだけだった。

テルモスの熱いお茶を飲み、武弥はザックを纏めた。浮石に足を取られぬように下りるだけだった。雲間に菩薩様を探したがもうそれは消えていた。ダケカンバを掴みザレを踏んで下った。振り返った時驚いた。空は何の曇りもなく足元には自分の影があった。それはひどく明瞭で、なぜか武弥は嬉しかった。とても嬉しかった。