日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

水面の油

例えばフライパンを洗っている。汚れが激しければ水につけておく。フライパンの油はやがて浮き上がってきて縁に付いたり真ん中に浮かんだりする。小さな港に行ってみる。漁船の機械室から漏れたのであろう、燃料の油が水面に浮かんでいる。防波堤を越えてやってきた小さなさざなみにたゆたうようにそれは揺れる。

波の動きに従って油は形を変えながら思い思いに散っていく。大きくなり小さくなり動いていく。分離して散っていくが、いつかまとまる。しかしそれも次の波で分かれてそれぞれに漂う。まるで油に意志があるようにすら思える。

中学校時代の同窓会が自分の住む街、横浜であった。親の転勤の都合で自分は中学高校の六年だけを広島市で過ごした。卒業と同時に離れた。親の転勤で行っただけの縁もゆかりもない街だった。高校の友人とは年賀状のやり取りがあり先日40年振りに再会した。しかし中学の仲間となると何の伝手もなかった。

少し前にSNSを通じて中学時代の友人と繋がることが出来た。少し変わった自分の苗字が幸いしたのか、君は広島市立○○中学校卒業のXX君か?という連絡だった。中学の思い出はかなり風化している。連絡の主は記憶があったがその後に加わった同窓会のネットワークには覚えている人もいればいない人もいた。そんな仲間内のプチ同窓会があった。その会場はまた同窓生がやっているレストランだった。自宅から30分もかからない場所だった。場所は広島ではなく横浜で行われたのは、関東在住の卒業生もそれなりにいるという事だろう。

記憶の中の幹事役の友は当時何処かでクラスが一緒だったはずだが、ともにつるんで遊んだ記憶もなく、彼の名前と上背の記憶のみがあった。今も白髪の混じる素敵なシルバーエイジだった。参加された女性三名も自分の名前と面影を覚えてくださっていた方もいらした。素敵に歳を重ねられた彼女たちに自分は記憶の薄さの非礼を詫びた。皆同じ校歌を歌えるはずだった。「原爆許すまじ」も歌える。学校の窓の外の太田川放水路を毎日共に見たはずだった。怖かった先生、記憶に残る先生、仲間たち。話題と笑いは尽きなかった。

驚いたことに幹事役の友人とは、実は同じグループの会社だったと知った。互いの自宅も勤務地も近くベージュ色に赤いチャックの制服を着て仕事をし同じ社内報を見ていた訳だった。勤続25周年で贈呈される裏面に社名の刻印のある腕時計をともに持っていた。ある女性は我が家から車で5分の所にお住まいだった。今回あったメンバーは知らず知らずのうちに半径10キロ以内の同心円を描けばその中にすっぽり収まるということが分かったのだった。広島を離れた時は前後したかもしれないがそれぞれが去って、700キロ離れた都会での小さな点になっていた。40年もの間皆それぞれ気づかぬままに同じ電車で、同じバスで、同じショッピングモールの中で顔を合わせていたのかもしれなかった。

今年で「赤いちゃんちゃんこ」の年齢になる。同級生だから皆が「せーの」でそうなる。それを祝い今もご健在な恩師に会おうという大規模な同窓会が広島で行われる。自分も参加を迷った。遠い街、今では何のゆかりの無い街なのだった。

広島は瀬戸内海に面した小さなデルタの上の街だ。自分達はそこに浮かんだ大きな油だと思った。それは波にもまれて小さな油に散らばっていく。いくつかは黒潮に乗って東京湾迄流れついて、ある街の辺りでそれぞれ静かな波にたゆたんだ。ある時はとても近く、ある時は少し離れた。先日のプチ同窓会で期せずして水面の油が小さく一つになった。そしてまた日々の生活という名のもとに散っていく。次回広島で行われるという同窓会に向けて油はまた集まり、今度は大きく結びつくのだろう。

人間の生きる様はまさに水面の油だな。そんな風に思う。自分で何かしようとしてもその通りに行く事もあれば行かないこともある。結局は何か見えない力によって動かされるのかもしれなかった。また油が纏まって大きな円になるのは素晴らしい話だなと思うのだった。僕も今まで結局は波間を漂ってきたのだった。意思に従い生きてきたが結局は病にもなり少し早く会社生活を終えた。大きな流れの中の一つに過ぎないのだ。

同窓会の参加届に〇をつけて少し迷ってから投函した。

元安川本川にかかる相生橋の上から見る広島電鉄路面電車原爆ドームの風景を忘れる事はないだろう。原爆ドームを左手にしながらこのT字型の橋を直接南に向かうとそこは平和記念公園なのだから。この街で過ごした六年。自分は世界平和の意味を知り、自我も芽生えた。それは貴重な時間だった。「原爆許すまじ」を唄えるのだから。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村