日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

爆音と弾痕

時代が時代だった。多かれ少なかれ太平洋戦争や第二次世界大戦の戦記物やメカものに惹かれた。それが自分の小学生の話だった。当時の自分のヒーローは王でも長嶋でもなく坂井三郎氏だった。旧帝国海軍の戦闘機搭乗員、ゼロ戦を駆っての64機撃墜は海軍のトップエースだった。少年航空兵から台南航空隊、ラバウルガダルカナルでの負傷、内地帰還、硫黄島終戦。彼の戦歴は諳んじている。坂井氏の著作「大空のサムライ」を今でも大切にしている。撃墜王がヒーローになるとは、戦後20年。無理もなかった。

自分の飛行機への憧れは坂井氏の著作からだった。興味はヨーロッパ戦線にも広がった。欧州駐在を利用して数多くの航空機・戦車の博物館に足を運んだ。戦績巡りも然りだった。フランスではノルマンディ上陸作戦オマハ・ビーチ。オランダではマーケット・ガーデン作戦の「遠すぎた橋」アルンヘム。ベルギーはバルジの戦いのバストーニュ、ドイツではライン川に架かるレマゲンの鉄橋…。いい大人になってもそれらは自分にはあくまでもメカの塊であり、慣れ親しんだ聖地の如きだった。

戦争というものを実感で味わったこともない。中学高校6年間を広島で過ごしたので原爆教育という名の平和教育は必修だった。資料館と被爆者の声はあまりにも凄絶で現実味を通り越していたのかもしれない。当時はまだ沖縄は米国だった。返還され久しいが、その名残か沖縄で言われる基地の話は今でも自分は遠い話に思っていた。

しかし先日の武蔵野のサイクリングは平和ボケの自分にも過ぎし戦争を感じさせてくれた。武蔵野には戦時中には陸軍航空隊の基地もいくつもあり軍需産業も多かった。当時の遺構が多く残るのだった。

横田基地。これまでも何度もその前を通ったが今回初めて北東側のフェンス道を辿った。十人以上のアマチュアカメラマンが脚立に乗り望遠レンズで狙っていた。アイドリング音は聞こえていたが滑走路が突如噴火するかのごとく大音響を立て灰色の戦闘機が離陸したのだった。数百メートルの滑走でひらりと舞い上がった。続いてもう一機。岩国基地所属の最新鋭ステルス戦闘機F35だった。

当然飛行機マニアとしては鳥肌がたった。米軍の最新鋭機だ。しかし体が棒立ちで痺れっ放しなのは違う理由だった。腹の底まで揺るがす爆音。一気にエンジンの回転を上げて飛び立つ。たった一つのエンジンしかないのに旅客機の離陸音とは明らかに違う。低音で唸るとあっという間に人間の可聴周波数を超える音になった。金属の感覚と風圧が残りそれが自分の体から力を奪ってしまった。

立川駅の北側には立川飛行機と日立航空機の2つの工場があったと知った。前者は航空機、後者は航空機のエンジン工場だった。その両者とも米軍の攻撃対象だった。辛うじてエンジン工場の変電所のみが今日も残っていた。

館は地元ボランティアにより運営されていた。ご丁寧な説明を頂いた。空母艦載機の米海軍F6Fそして硫黄島からは米陸軍P51戦闘機、いずれも高度30メートル付近まで降下しての機銃掃射。日を改めて高度3000メートルでのB29による精密爆撃。亡くなったのは学徒動員の学生であり、工場従業員であり家族だった。当時に飛散した実弾と共に全員の名簿が残っていた。

厚さ20センチはあるだろうコンクリートの変電所は多くの弾痕が残り幾つも貫通していた。当時の米軍機には総てブローニングM2が搭載されていたが「最終ラインの防衛兵器」と位置づけられている今も現役の重機関銃の放った12.7ミリ徹甲弾の威力をまじまじと感じたのだった。この銃を4連装にした装甲車はミートチョッパー(肉切包丁・挽肉製造機)と呼ばれ独軍を恐怖に陥れた。それが一機あたり6丁載っているのだから、変電所の無惨な姿も腑に落ちた。

爆音も弾痕もすべて去りし戦争の傷跡であり、メカの美しさ、格好良さ云々の世界をやはり越えていた。基地問題が大きく話題になる沖縄の情勢にもこの爆音に触れれば少しは敏感になるだろう。現実に今世界で起きている紛争もにわかに現実味を帯びるだろう。この爆音と日々付き合う事も、ましてや弾痕が身の回りに起こりうる中で日常を過ごすことも、限りなく過酷で困難な話だ。

相変わらず自分のミリタリー・メカ好きは続くだろうが、そんなお気楽なものでもないなと感じたのだった。平和のありがたさを思いその永続性を祈る、そんな自分を振り返る小さな旅だった。

タクシングから滑走路に出て、唸り始めたらあっという間に轟音となり飛翔していった。F35をこれほど間近に見たのもその飛翔も初めてだった。飛行機ファンは痺れるのみ。しかし近隣住民は心休まる事もないだろう。(写真はサイクリング仲間のKY氏撮影によるもの)

米軍機の12.7㎜機銃弾の弾痕が残る旧・日立航空機工場の変電所。中は展示品のある記念館になっている。もう80年近く前の遺構になる。今の平和な街を古い建物は静かに見ているだけだ。