日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

今年もありがとう母校・箱根駅伝

もう脈は薄いかと思っていたら往路では断トツだった。今年こそは気合を入れて応援しようと思った。翌日何故か朝は早く目覚めてしまった。

部活動に打ち込んたわけもなく学業に専心したわけもない。ゼミにも入れなかった。まさに無為徒食だった。顔の広い友が講義のノートを惜しみなく貸してくれたおかげで単位をギリギリでとった。親もまたありがたいことに学費を払ってくれた。そんなおかげで卒業できたようなものだった。ただ言える事、それはかけがえのない仲間たちと知り合った事だろうか。

社会人になってから母校は遠かった。母校は自分の母の憧れの学校だったらしい。高校を卒業し裁縫学校に通っていた頃その学校出身の女性がいて憧れた、そんな話は飽きるほど聴いた。自分がその学校に合格した時にとても喜んだのはそんな理由だろう。自分の志望校は異なっていたが学力的にそこには縁が無かった。母校は二学部受けて偏差値の低い学部に受かった。辛うじて、だった。お洒落でナンパな学校、そんなステレオタイプがあった。自分には似合わないと思っていた。そんな母校が箱根駅伝常勝校になってからは母は正月を楽しみにしていようだ。自分は無邪気に勝利を喜ぶ母が不愉快だった。昔から母は過度に干渉してきた。嫌だった。自らの憧れの学校に息子が入ったことが嬉しいようだった。母に母校を褒められると不快だった。

自分がガンになり、学生時代の仲間たちがライングループを作ってくれた。それが入院中の大きな助けとなった。退院し再び母校で皆で会った。皆六十歳を迎える仲間達だった。当時の建物の一部は変わり、憩いの場だった学生食堂も大きく立派になっていた。ここでどれほどの時間笑いそして悩んだだろう。悩みの理由は大人に向かう自分と向き合う歯がゆさだった。変わらなくてはいけなかった。しかし正門から続く銀杏並木は昔と変わらない。そこを皆で歩いているときに思った。素直に思った。並木の作る陰影が、笑いあう学友の声に増幅され心に刺さるのだった。「ああ、ここはやはり我が学び舎だな。母校は良いな」と。

それから箱根駅伝を応援するようになった。自宅から箱根駅伝の国道までは徒歩20分だった。沿道で応援した年は何故か三位だった。それまではほぼ首位独占だったのに。しかし三位に至るまでも何人ものごぼう抜きがありテレビ出て見ていて手に汗を握った。それは今年も同じでスタート後は九位だったが連勝と言われた昨年優勝校を途中で抜いた。おお、と身を乗り出した。初日の芦ノ湖はトップで往路優勝した。

予想通過時刻一時間前から沿道は人だかりだった。母校の緑色のタオルを持っているお嬢さんがいらした。話しかけたら横にいらした彼女のお父様が我が母校ご出身だった。4歳年上と言う事だった。自分は昨夏に購買部で買った緑色のポロシャツを持って行った。胸には母校の徽章が刺繍されている。アイビーグリーンこそ母校の色だった。「カレソン、唄えますか?」と聞いたらもちろん、と言われた。カレソンとはカレッジソング。校歌ではないが学生は誰もがこちらを唄った。では共に歌い応援しましょう!と盛り上がった。

アイビーグリーンのシャツとパンツの選手はやはりトップで鶴見川を越えてきた。あっという間に通り過ぎた。僕は可能な限り大きな声でカレソンを怒鳴ように歌った。しかし正月前から肺と気管支の具合が良くなかった。がなりながら深くせき込んで座り込んでしまった。手をついて最後の搾りかすをとうに走り去った選手に向けて出した。「我らが母校、あおやま」と。

帰宅して急いでテレビをつけるともう銀座まで走っている。独走だった。僕の死にそうなカレソンが彼らの助けになったのかわからぬが母校は断トツでゴールテープを切った。ありがとう、母校。新年から力をくれた。今年はきっと好いことがあるな。沿道で振り回したアイビーグリーンのポロシャツはたたみ直して仕舞った。初夏になったらまた着よう。今度はまた仲間達で歩きたいな、あのキャンパスを。その時はタオルを買おう、と思うのだった。

今年は断トツで一位だった。渋谷宮益坂を登り十分の右手。懐かしの母校は力をくれた。今年こそ良い年をと思う。