日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

鰻を食べて乗り切ろう

自分が小学校高学年から中学・高校にかけて、最も好きな作家は北杜夫だった。軽妙な文章、ユーモア、そしてナイーブな感性。エッセイから純文学まで。「どくとるマンボウ航海記」から「楡家の人々」迄。文章を覚えるほど読んだものだ。信州大学、それに松本という街に憧れたのも斎藤宗吉、後の北杜夫がその前身である旧制松本高等学校で学んだからだった。

北杜夫の父は斎藤茂吉だが、この高名な歌人を父として持つ一方で、自己の文学への目覚めと、今に気づいた詩歌の先駆者である父の偉大さ。その中での精神の葛藤は、北杜夫のエッセイの中には頻繁に出てくる。そして同時にそこに描かれていたのが、斎藤茂吉の「鰻好き」だった。

戦争での食糧難を察し、鰻の蒲焼缶詰を大量に買込み疎開先の郷里の山形にもちこみ、息子にも余り分けることなく独りこっそりと食べていた、そんなくだりはユーモラスで楽しかった。鰻とはさように美味しくて、滋養強壮に効くのか! しかし子供の味覚を引きずっていた当時の自分にはあまり鰻は美味しいとは思えなかった。頻繁に食べる機会もなく、また、小骨も多く、少しグロテスクに感じたのかもしれない。

鰻をきちんと食べてみようと思ったのは、池波正太郎の書だった。彼の本で駒形の老舗鰻屋がでてきて、いかにも粋で通な食べ物のように感じた。そこで社会人になりたての初めてか二度目のボーナスを貰ったあたり。当時勤務していた神田にあった老舗にランチタイムに訪問した。神田界隈はさすがに鰻屋は多く、商店街にも鰻を焼くいい匂いが漂っていた。そんな中いかにも歴史のありそうな店の引き戸を開けた。清水の舞台から飛び降りる気持だった。

「ああ。美味しいな」なるほど、これが斎藤茂吉も、池波正太郎も魅了した鰻か。甘辛いタレもふわふわの肉も、香ばしい焦げ目も、淡白な肝吸いも全て美味しかった。

当時の鰻の値段はもうよく覚えていない。高い舞台から飛び降りた記憶と味の記憶だけが残っているので、やはりかなり背伸びした金額だったのだろう。しかし庶民的な値段の店はあったように思う。その後勤務地が静岡県三島市になった時期もあった。富士山の清らかな伏流水が湧き出る三島の名物も鰻。三島大社の門前には多くの鰻屋があり行列は風物詩でもある。来客時の接待には持ってこいだがこれも美味しかった。しかし値段は自分の懐で気楽に、という訳にも行かなくなっていた。稚魚が減ったという理由なのか、「うな重」にせよ「うな丼」にせよ庶民の懐ではやや遠い存在になっていた。

母親から「夏だから、土用の丑の日だから、鰻が食べたい。」という連絡が来た。思えば昨夏もそういって、母と家内と三人で食べたことを思い出した。母は鰻が好きなのだろうか?昨夏は地元の古い鰻屋でけちったのか半身のうな重にした。美味しかったがすぐになくなってしまった。しかし母は喜んでくれた。

今年も食べたいのね。半身ではなく一尾で手頃な店を探した。うな重ではなく、うな丼なら少し安いな。鰻の量は昨年の倍はあるぞ。器以外に両者の違いはあるのだろうか?

老舗ではなく、ありきたりの街の中の鰻専門店で「うな丼」を三人で食べた。年齢に見合わず、ご飯少なめのうな丼を母はきちんと食べ終えた。人間の衰えは食欲の衰えから始まる、という。その意味で、物覚えの衰えが傍目に著しくなり一人住まいの不安を訴えるようになった母だが、まだまだ健康そうだ。

食事をしながら、「美味しいね」以外に今更母親と特段会話が弾むわけでもない。家内との話は色々浮かぶ。母と食べた食事より、家内と食べた食事の回数のほうがはるかに多いのだ。何か気の利いたことは喋れないものか。自分を生んでくれた母なのに、何故言葉が出てこないのだろう。他人相手ならいくらでもおしゃべりができる癖にと、すこしもどかしく感じるのだった。

北杜夫の文中には、鰻を密かにむさぼる父の事は書かれていても、共に食べたという記述はあっただろうか。しかし文中の北杜夫はいかにも共に鰻を食べたそうであった。会話は無くとも、幸いなことに自分は今年も母親と鰻を食べることが出来た。老舗の味ではなく申し訳ないが。

「鰻を食べて元気出たね。今年の夏もこれで乗り切れるね。何かあったら連絡頂戴ね」、と通り一遍を述べて母と別れた。 

あと何年、こうして鰻を共に食べられるのか。来年は稚魚も増え今年よりは安くなり、竹ではなく松。一尾ではなく二尾でも完食してもらいたいものだ。

 

母と食べる鰻。しっかり食べてくれるのだからありがたい。食事中会話を探しても浮かばない。息子とはそんなものだろうか。母には悪いことをした。