日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ありがとう母校・箱根駅伝

母校には二つの歌があった。校歌とカレッジソング。前者は式典時に歌われるものだったが学生食堂や購買部でもいつも流れていた。後者は学生の愛好歌で「カレソン」と呼ばれていた。飲み会などで興が乗ると誰からともなく自発的に歌われた。しかし自分はきちんと歌えない。というのも校歌にもましてともに唄う機会が無かったからだ。

体育会やサークル活動に熱中していた学生は少なくともカレッジソングは唄える。学園祭や部・会のイベントの打ち上げなどで想いが泉のように湧き上がり口に出るのだろう。夜の渋谷センター街道玄坂。酔ったサークルメンバーが唄うカレソンは自分の中では渋谷の一風景だ。

自分はサークル活動に熱中した学生時代ではなかった。ベースギターの入ったソフトケースを肩にかけ軽音楽サークルの説明会に顔をだしその足でサークルの集う喫茶店で駄弁った。皆の話す会話が理解出来なかった。皆プロに見えた。自分の入れるバンドはないだろうと尻尾を巻いた。ゼミにも入れずに終わった四年間。学校とは距離感を置いた学生だった。が素敵な仲間は沢山出来た。今でも大切な友人達だ。それが自分の四年間で得た宝だった。

テレビで見る有名なバンドやシンガー、俳優などが先輩・後輩として名を連ねている。そんな学校だった。自分の代で教養課程は厚木市に移転し、都内から自家用車で通ってくるクラスメイトもいた。また流行りのファッションに敏感な学生が集まった。しかし一体いつからだろうか、母校は箱根駅伝の常連となり優勝に優勝を重ねるようになった。監督の手腕はティームマネジメントの好例として「マジック」とも言われた。おお、随分と「キャラ変」したな。と思っていた。

駅伝のルートは自分の家から近い。徒歩15分でルートの国道に出られる。快進撃を続ける母校。「観られるうちに見ておくか」。そう思ったのは、人生いつ何が起きるかわからない、だから気になることがあればすぐにやっておこう、という考えを病気の後に持ったからだった。

さて、どうやって応援するか。やはりここはカレソンだろう。力走する母校の選手を前にカレソンのサビでも歌えば彼も励みになるまいか。

国道迄動画サイトでカレッジソングを聞きながら歩いた。得意な一夜漬けだった。沿道の人の多さにこのイベントの人気が分かった。正月恒例な風景だ。一時間ほどほど待ったら交通が止まり白バイ、パトカーがやってきて上空をヘリがホバリング。にわかにそれらしくなった。中継車がやってきて、トップを走る学生が続いた。母校のカラーのランニングシャツではなかったが挑むように走る学生の姿に、なぜかじわりと目頭が熱くなった。三番目にようやく母校のランナーが来た。緑色のランニングシャツは、緑の旗に月桂樹をあしらった「校旗」の色でもあった。空気が割れ、風があとに残った。

自宅を出る時は八番手あたりだったはずだ。しかしなんと五人をごぼう抜きしたのだろう。彼も負けてはいない。ゴールに向けて正鵠を射るかのごとき迷いのない視線にどーっと涙が出てきた。抑えられない激情だった。一秒もかからずに緑の風は去った。カレソンを歌うどころでもなくただ口走った。「ガンバレー、母校」

トップとの差は8分以上。今から多摩川を越え品川、大手町か。逆転は難しいだろう。順位などどうでも良いのだ。

宮益坂をあがり右手に見える母校。我が学籍番号14182239。今でもそらで覚えている。

学生時代の仲間たちと、また行こう。学食で駄弁ろう、そう話して時間が経つ。何度か学校の前を通ったがコロナで構内に入れない時期もあった。素敵な母校に、今言える。愛着があると。そこで得た何かが今の自分を支えていると。

今度こそ母校に行き、カレソンを歌う。そして購買会で緑色の校旗を買い家に飾ろう。ありがとう、我らが母校。

本当は沿道で振りたかった。この旗を。今度学校へ行ったら、小さい奴でも是非買おう。

 

渋谷駅から金王坂を、宮益坂を登って通った懐かしきキャンパス。自分はここで何を学んだのだろう。

五人をごぼう抜きしたのか。激走する母校のランナーに涙が出た