日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

滑るクラッチ

クラッチが滑る」、そんな言葉は今通じるのだろうか。妻と二人の娘達もこの数年来に運転免許を取得したが、いずれもオートマチック車限定の免許だ。

オートマチック車といえばアメリカの文化と言う印象がある。古いアメリカ映画でもコラム式のオートマチックレバーを操作するシーンを見かけまいか。一方欧州では2010年代でもマニュアル車ばかりだった。会社のフランス人は「あれはアメリカ人の乗り物だよ」と笑っていた。この米欧の文化の違いは興味深い。日本も自分が免許取得した昭和50年代はオートマチックは少数派だが、今や逆転した。運転を生業としない限り、マニュアル車の免許は不要だろう。

仕事先で自分より10歳程度年下の方と時々話をする。仕事上での必要性もあり免許を最近取ったという。そんな彼は目下車を買おうと物色中だ。「今が一番楽しい時期だね」などと話すとやや困った顔をした。マニュアル車の選択肢が少ないという。

珍しいね、マニュアル免許なの? 

自分と10歳程度年齢が下でも、やはり彼の時代もマニュアル車だったのだろう。クラッチを踏んでシフトノブを動かすという一連の所作に惹かれているそうだ。

教習所で教官からこう言われたという。「徐行の時もクラッチは多用しないようにね。半クラッチばかりだと「クラッチが滑る」からね。そうならぬようクラッチは必要な時だけ思い切って踏んで、優しくつなげて。」

クラッチが滑る、か。懐かしい。

昭和40年代から母が乗っていた車は当然ながらマニュアル車だった。免許を取りやがて自分も車に乗るようになった。自分が乗り始めてからは変速機の調子が悪くなってきた。変速しても上手く力が伝わらない、まるでエンジンの空回りだった。

叔父は車のディーラーと整備工場を経営しており、調子を見に来た際にすぐに言った。「おお、これはクラッチが滑りよる。」

エンジンと変速機の間に介在するクラッチは動力伝達装置。変速の際はクラッチを踏みエンジンと変速機をリリースし、変速の後に又つなげる。思い切りやらずに中途半端につないでいるといずれクラッチ板は摩耗してくる。こうして「滑る」ことになる。

自分はずっと中型バイクに乗ってきてクラッチ操作など苦でもない、と思っていたが、握ると踏むの違いもあるのか、無意識に半クラッチを多用していたのか、やはり癖があるのだろう。長い時間をかけてクラッチに負担をかけていたと知った。

クラッチが滑る」。確かに今や車では遭遇しないシーンとなったが、実は日常的にそんな光景があるのではないか、と気づくのだった。

「会話」だ。妻との会話。その関係が深ければ深い程、なぜかじっくりと意思疎通を図る事もない。「以心伝心」だろう、わかるよね、という一方通行の思い込みが拍車をかける。結果として、会話に費やされる単語の数が減る。また妻の言うことをじっくりと聴いているのかと問われると答えに窮する。もっと手短に要点だけ伝えてほしい、と言ってしまう。耳が聞こえないわけではない。

言うことを相手が善意に解釈してくれればよいが、意図を汲まれないのも困る。相手の言うことを勝手に遮断するのも酷い話だ。頭の中にある見えないクラッチ板はこうしてすり減ってくる。滑り始めれば、修理、いや修復は大変だろう。

また、「決め事」も同様だ。社会人生活を終えてからは他の件も併せ役所に申請する案件も増えた。面倒臭そうな書類が厚い封筒で送られてくることもある。

「なんだこれ。面倒だな。」そうして蓋をしてしまうのは簡単だが、クラッチを踏んで開封し、やるべきことを理解したうえで、クラッチを再びつながないと、エンジンの力は伝わらない。こうしてやり残しり残している「決め事」が少なからず放置されている。

ポンコツになり錆びついてきたが目下エンジンも変速機も動作する。おんぼろなエンジンは頭と心臓、ポンコツな変速機の先にはタイヤならぬ口と手足、そして耳がついている。だからこれからはクラッチを切るときはしっかりと切って、つながなくてはいけない。滑らさぬように入力=出力としたいものだ。

今後も快適に過ごしたい。「滑るクラッチ」にはご退場をお願いしたいところだ。おっといけない、それは自分の手綱さばき次第だった。

アクセルとブレーキは分かるが・・・左端のペダルは今は余り一般的ではないのかもしれない。しかし大切な役割を果たしている。滑られては「困る」。