日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ペースメイカー

幸いな事に自分は目下心臓は悪くない。激動の昭和を猛烈なサラリーマンで駆け抜けた父は心臓を悪くし、長い喫煙習慣も手伝ってか重篤だった。ペースメイカーまではいかなかったが心臓血管にステントを挿入した。もう30年以上も昔の話だ。治療が奏功し心臓に関しては父はその後平静を戻していた。

ペースメイカーと呼ばれる心臓機能補助器具を目にしたことはない。しかし自分にもそれに近いものが必要と感じている。脳外科手術を受けて大きく変わったことがある。常に手術瘢痕を中心とした神経の違和感。しびれ。疲れやすさ。失われた持久力とバランス感覚。また、手術後からずっと服用している薬は脳の異常電気信号発生を阻害する役割を果たす。ありていに言えば「癲癇の発作止め」となる。脳全体の活動レベルを落とすことになるので、色々と副影響が出る。

これらには一生のお付き合い。そう決めて、仲良く過ごす事しか考えられない。すべてを無理しないで、ゆっくりとこなして、失われた、いや、錆びた機能を元に戻すのが日常となった。運転、サイクリング、登山、スキー、ウォーキング、楽器演奏、仕事。すべてが昔通りではないが、ゆっくりと戻してきている。しかし完全には戻らないだろう。

ペースメイカーは心臓の補助器具ばかりではない。マラソン長距離走で選手を引っ張る役割を担う走者も、そう呼ばれる。

自分が必要なのは、それだ。別にマラソンをするわけでもない。単に車で走る際に、適度なペースで走り自分を牽引してくれる車が欲しいだけだ。一般道ではなく、高速道路。もう以前のように100キロ、110キロでクルージング、走行車線と追い越し車線をマシラのごとく行き来する事もとても出来なくなった。頭のブレーカーが働き警鐘が勝手に鳴る。首都高速のように高度感のある立体のジャンクションなぞ、ガードのセメント壁を吹っ飛ばしてそのまま空に飛んで、海や川に落ちる錯覚がする。

そんな時に、ゆっくりと70キロ程度で巡行する車。多くはトラックなどだが、それの後を走るのが楽だと知った。以前ならば「なんだこいつは!」だった。しかし今はありがたい。なにせゆっくりなので、後続はしびれを切らしてどんどん抜いていく。つるんで走れば怖くもない。こちらは前方車を見て追随するだけなので、頭の負担が大きく違う。

2カ月ぶりに高速道路を走った。自宅に戻る際に、「相模ナンバー」のタンクローリーが前にいた。「高圧ガス」と書かれている。「行先は自分と同じ方面だな。彼ならスピードは出すまい」そう踏んで、彼をペースメイカーにした。

狙い通り、時速75から80キロをピタリと維持してタンクローリーは巡行する。登りも下りも、彼の後に居れば自分は安心だった。盆地の平たん路も、分水嶺の長いトンネルへ向けた登りも、羊腸のごとき谷あいの道も、彼はペースを維持した。まさにペースメイカーだった。自分はまるで見えないロープで牽引されたかのようにタンクローリーに追随する。彼我の間によその車だけは入れたくない。

搭載物の「高圧ガス」。高圧とは威圧的だ。如何にも危険っぽい。人を載せる高速バスもツアーバスも緊張するだろう。危険物ならばそれを載せて走るタンクローリーの運転手さんには一体どれほどのストレスがかかっているのか、自分には想像もつかない。事故は即大惨事だろう。危険でないとしても大きな体はやはり緊張しよう。かたや自分は妻と犬が小さな車に乗っているだけ。こちらも大切だが、高圧ガス搭載の大きな車の緊張感と較べるとどうだろう。自分はただタンクローリーの運転手さんのご苦労とストレスにタダ乗りするだけだ。
東西に走る高速道から南北に走る高速道に彼は向かった。相模ナンバーなのだから、そうだろう。自分もそのルートだ。するとすぐに彼は高速を降りた。「おいおい、ちょっと早いだろう。」別れが寂しかった。彼の目にも届かないのに自分は車の中から彼に手を上げて挨拶を送った。バイク仲間でのツーリングで、それぞれが別れる時の挨拶と同じだ。

そこから先は長かった。新しいペースメイカーは直ぐに見つかった。しかしこれも途中まで。いつしか彼もとあるインターチェンジで道を外れた。あとは自分一人。ハンドルにしがみつく猿のような姿勢となり、慎重にアクセルを踏んだ。かつてのマシラは、慎重な猿だった。

ありがたきペースメイカー。もう高速を心地よく巡行する必要もないのだ。安全第一。今日のタンクローリーさんとは150Km以上のランデブーだった。本当に助かった。高圧という銀色のタンクの中身も、無事に送り届いたことだろう。さて次回はどんなペースメイカーさんがいらっしゃることか。出会いはいつも期待に溢れる。ゆるりとお付き合いを。

タンクローリーが今回のペースメイカーだった。運転手さんのストレスにタダ乗りをしてしまった。しかしとても助かり、感謝しかありません。

 

市販ソースでのパスタ・たらこ

先日テレビで、有名シェフが市販のパスタソースをベースにしてパスタ作りする、そんな、番組があった。

あまり手をかけることなく、有り合わせのもので、というコンセプトは面白いし、流石に料理人。何にせよ見事な皿にしてしまう。同じ材料があっても自分には出来そうもない。

コンセプトだけなら真似できようと、自分流でトライしてみた。市販のたらこソースを使う。

(2人前)
たらこスパゲティソース
じゃがいも1個
ダイコン1/6本
ピーマン2個
パスタ220グラム(スパゲティ)
バター少々
液体出汁少々
白ワイン(調理用酒)少々

・じゃがいもと大根は皮を剥き短冊切り。レンジで約2分加温後オリーブオイルを引いたフライパンで焦げ目をつけるように低音でじっくり焼く。
・一旦外し、こんどは強火でピーマンも焼く感じで。冷凍庫で寝ていたジャコも2ツマミ投入。
・じゃがいも大根を戻して強火で炒め、ぐるり白ワイン(今日は調理酒)と液体出汁のもとを大さじ一杯程度。パスタの茹で汁も少し投入。
・アルコールを飛ばしてからパスタソースの素とバターを投入。たらこがつぶつぶにならぬようここはもう加熱しない。
・アルデンテで茹であがったパスタ投入。手早く混ぜるのみ。盛り付けは、具材はまとめて上に乗せるように。

さて味。じゃがいもは安定の美味しさで焦げ目も心地よい。しかし大根はソースは馴染むが食感が合わないようだった。尤も凡そ総ての食べ物は自分と家内の舌にかかれば「美味しい」になってしまうから、こればかりは何とも言えない。

しかしバターの追加投入もありコクもあった。たらこは少し粒状感が出てしまった。熱いパスタにからめるのだから仕方もない。このあたりは課題だろう。トライしなかったが少し練りチューブワサビを付けたらなお味が引き立ったかもしれない。またショートパスタも合うかもしれない。

忘れていた。大失敗だ。これは、昼食には向いていない。なぜなら、冷えたワイン。出来ればロゼ。ゆずって白。それが欲しくなる。今日など午後から仕事なのだから。仕方ない。またソースを買ってきて、夕食に作るだけだ。

市販のパスタソースに手を出すのは情けない。ずっとそう思って、ジェノベーセソース以外は自分で試行錯誤をしていた。それも楽しい。しかし大手の食品メーカーがそれなりに開発費を投じて上市した商品は流石にこなれた味で、様々なアレンジを余裕で甘受する懐の深さもあった。「恐れ入りました。美味しゅうございました」。そうS&B食品様に頭を下げた。

スーパーに行けば様々なパスタソースがある。余り気張らずに使うと幅が広がる。良い勉強だった。

 

神保彰・ワンマンオーケストラ

おもいっきりフュージョン世代。といっても本場アメリカではなく日本のモノ。いまではJ-FUSIONという呼び名だそうだ。アメリカのFUSIONは友人の影響で聴いたウェザーリポート。リー・リトナーラリー・カールトン、アルディメオラ、チック・コリアあたりは触りだけだった。

高校生の頃にポップな高中正義で入ったせいか、カシオペアが80年代の自分にはピンときた。ギターバンドが好きだったのでスクエアはほとんど聞かなかった。よりジャズっぽいアプローチの渡辺香津美に触れたのは、半年ほど後だった。いずれにもはまった。カシオペアと言えば売れ出した頃の、JIMSAKUに分かれる前の四人がベストメンバーだと思う。タイトなリズムにキャッチーなメロディ。音も過剰なアレンジもなくシンプルに近かった。なによりも4人ともに超のつくテクニシャンだった。「不動の面子」とはあの事を言うと思う。

彼らのライブ体験は一度のみ。19歳か20歳か忘れたが、駒澤大学での学園祭だった。体育館に見に行き「アサヤケ」に「ドミノ・ライン」に燃えた。開演前のトイレでは、憧れの桜井哲夫さんと隣同士だった。

「今日は楽しみです。自分も下手くそなベーシストですから」
「ベース、楽しいでしょ。頑張ってくださいね」

握手をしてもらって、夢み心地だった。

そんな桜井氏と鉄壁のリズムセクションを組んでいたのが神保彰。聴いていて痺れるドラマーは、神保氏とジョン・ボーナムか。もちろんバーナード・パーディも、リッチー・ヘイワードもたまらない。キース・ムーンはどうした?ミッチ・ミッチェルは? あ、ビル・ブルフォードも。いや神髄はチャーリー・ワッツでしょう…。日本人忘れるなよ。林立夫だろう、ポンタだろう・・。彼らにまつわる自分の想いを書き出すと、長くなるし、稿の趣旨を外してしまう。

神保氏は桜井氏とともにカシオペアを脱退してからはヴォーカルを入れたJIMSAKUに軸足を移し、熱帯JAZZ楽団でも素晴らしいドラムをたたいていた。ゲストプレイヤーとして出戻りしたカシオペア3RDからは、つい先日脱退してしまった。オルガンを取り入れた3RDも素敵でライブを見たいとは思っていたが残念だった。

そんな神保氏が20年近く取り組んでいるのが「ワンマンオーケストラ」。ドラムにMIDI音源をトリガーでリンクさせる。スネアの上に設置したパッドでプログラムを切り替えながら、ドラムスに加えてギターやホーン、ベースなどの全楽器音を一人でドラムから叩き出す、というもの。初めてネットかテレビで見た時は空いた口が塞がらなかった。

自分の住む街のコンサートホールに、そのワンマンオーケストラがやってきた。気合を入れて最前列チケットが買えた。

会場前には皆さん興味深くセットを見ている。神保彰、とシグネチャーの入ったバスドラ。タムにもスネアにも名前が刻印されている。どうみても普通のアコースティックドラムだが、電子ドラムも組み合わされていた。セットはすべてYAMAHA。シンバル類はジルジャンだった。ここからあの世界がどうやって醸し出されるのか、想像もつかない。

一曲目はミッションインポシブル。バスドラが大迫力で、オーケストレーションも編曲も素晴らしかった。そしてラテンメドレーは、マンボNo5、テキーラ、エルクンバンチェロと、誰もがノレる曲が続く。氏が好きだという映画音楽の巨匠、ジョン・ウィリアムスからもスターウォーズなど誰もが知る曲。ベートーヴェン交響曲5番と9番も有名どころをメドレーで。

ようやく待っていた。カシオペアをやってくれた。まずはスクエアのTruth。F1大好きだった。そしてようやく、ASAYAKE。みんなノリノリ。ペンライトは出るは大変だった。なによりも奏者の神保氏がとても嬉しそうだった。

アンコールはEW&F。セプテンバーにゲタウェイをつないでくれた。皆さんこのあたりが「ジャストの世代」。オジサンオバサン、ノリノリだ。自分もね。

曲の合間に紹介や、ワンマンオーケストラシステムの解説もわかりやすく、楽しく、やってくれた。ワンマンオーケストラをやろうと思ったのは、「若い頃の友人の結婚式でドラム演奏を頼まれたものの、ドラムだけではウルサイだけで、皆さん楽しんでもらえなかった。だからドラムで音楽を奏でよう、と決めた」、そんなエピソードを語ってくれた。そういえばカシオペアのライブでは自称「司会屋」の向谷実がMCだったが、その後の彼らの映像に触れると四人ともトークが上手い事はよくわかった。その通りの楽しいトークだった。

「今は世代やジャンルによって聞く音楽が分断化されている。FUSIONは「融合」。そんなフュージョン出身の自分は、自分がいいと思った音楽はジャンルを問わずに自分の演奏会に取り入れて融合し、音楽の持つ素晴らしさを人に伝えたい」と最後に語られた。

自分より四つ年上だけとは思えない、溌溂さとエネルギーに溢れた神保氏。前人未踏とも思えるワンマンオーケストラを鍛錬し、早朝に目覚めて一杯のコーヒーをゆっくり入れて、作曲するという。ジャンルレスの素敵な音楽を世界に届けるという想いを持ち、瘦身の音楽家が朝早くから作曲するという姿は、いかにも魅力的に思えた。人間、いつまでも努力、そう語られたように思う。

満足の演奏会だった。出来ればあの「不動の四人」で円熟の音を、また、聞きたいと思うのだった。

ステージに置かれたのはドラムセットとPAのみ。YAMAHAシグネチャーモデルですが一見は普通。電子ドラムと組み合わせており、パッドが楽曲のスイッチを兼ねます。アコースティックドラムにもセンサーを仕込んで、叩き方で異なる音を出している、そんな話でした。

ジャンルレスに素晴らしい音楽を届けたい。そんな思いのこもった演奏会でした。流石です。しかし次回はやはり「不動の四人」で聴きたいもの。



駅そばシリーズ(10) 三島駅 爽亭

転勤で新幹線通勤をしていた静岡県三島駅。記憶もやや曖昧だがこの駅には4軒、いやもしかしたら5軒の立ち食いそば店があった。

新幹線ホーム。東海道線ホーム、南口改札横、そしてこの駅を始発とする伊豆箱根鉄道駿豆線の開札内。これでは4軒だが、東海道線のホームが上り用と下り用の2つあり、上りホームにはあったが、下りホームの記憶が曖昧だ。あっても不思議ではないが、下りホームの行き先は静岡や浜松で、利用者の多くは通学の高校生。そうと思うと無かったかもしれない。いずれにせよ一駅で4軒の立ち食いそば店とは品川駅とも変わらない。さすがに伊豆を控える観光地だ。

新幹線ホームと東海道線ホームの立ち食いそば屋は「桃中軒」という沼津の弁当屋さんが経営していた。駅弁屋が駅構内立ち食いそば屋を営む事はありがちだ。浮かぶだけでも中央線小淵沢駅。沿線の駅弁の有名どころといえば同駅の「元気甲斐」だが、駅の北側でこのお弁当を作る丸政さんも同駅に絶品の立ち食いソバ屋を出している。

桃中軒の駅弁は「幕の内弁当」だろうか。経木の箱に入った箱庭のような世界だ。紐をほどき蓋を外すとその裏側にはしっかりそこにご飯粒がつく。それを割りばしですくうのは愉しい。しかも「わさび漬け」パックが添えられているのも静岡らしく嬉しい。東京から三島への出張、半休した自宅から会社への午後出社へはそれぞれ品川駅か新横浜駅での「崎陽軒シウマイ弁当」。そして三島から東京への出張では三島駅での「桃中軒・幕の内弁当」。相場はそう決まっていた。いずれの弁当も「紐をほどく経木箱・蓋の裏に着くご飯粒」が共通項だ。

今回の訪問は、駅の南口、改札を出た売店の真横。「爽亭」。桃中軒ではない。この店は比較的新しく、駅の改修と共に出来たと記憶している。7,8年前だろうか。それ以前は南口では伊豆箱根鉄道改札内の一軒に頼っていた。ここは名物「椎茸そば」があり絶品だった。しかしもう数年前に閉じてしまった。代わりに駅南口で食べる時は「爽亭」。ここソバ・ウドンに加えて珍しく「きしめん」がメニューにありよく食べた。

会社を辞めて2年、三島勤務を終えて3年。久しぶりの訪問だ。

カウンターの女性一人での、ワンオペだった。三島の人間に悪い人がいるはずはない。話しかけなくてはいけない。

「ずっと三島で働いて、新幹線で通ってたんですよ。ここはよく立ち寄りました。懐かしいです」
「おかえりなさい、三島へようこそ」
「伊豆箱根のそばやは閉店したままなんですね」
「そうなんです、あの「椎茸そば」は美味しかったですねぇ」
「ここも負けてませんよ…」

そんな会話で、これから出てくるきしめんの素晴らしい味は担保されたようなものだった。会話も嬉しくて、別途かき揚げのトッピング迄追加してしまった。

お揚げにネギ。そのうえにひとつかみ乗った鰹節は、踊りまくる。ずるずると食べながら、お店の方との会話も踊るものだ。駿河の方言も耳に優しい。きしめんは三年前と全く変わっていなかった。

駅前でランドナーを組み上げた。そう、今日は、これから西へ向けての自転車旅行。だから満腹にしても大丈夫。変わらぬ味、変わらぬ街。組み上げた自転車を数センチ持ち上げてボンボンと落とす。異音なはい。前後ブレーキも大丈夫だ。後ろ髪ひかれる懐かしい駅舎を背にして、ペダルを踏んだ。

嬉しい味。きしめん。お店の方との話も弾み、かき揚げを追加してしまった!

駅南口は数年前に改修されて、その際にできた店だった。名物・三島コロッケもメニューに載っている。狭い通路で立って食べるという、慌ただしさによって味は倍増する。美味しい立ち食いそばやの法則(立って食べる。慌ただしい、せわしない、作り手の所作が見られる、おばちゃんの愛想が良い)をしっかり押さえている。

三島駅南口もいつしか綺麗になった。東京のベーカリーも出店しているのだ。腹ごなしは済んだ。ランドナーも好調だ。走り出そう。

 

しごかれた契約書

契約書。ドラフトを作成するのは法務部の仕事でも、それをお客様との間で合意に取り付けるのは、営業部の仕事だった。自分が所属していた前々職の会社の話だ。契約書自身かなり持って回った表現をするので、日本語でもその内容を理解して顧客と交渉し合意に至らすのは楽ではなかった。

ましてやそれが英文ならば、ハードルは一段と上がる。そんななかで、秘密保持契約を、各種のMOU(Memo of Undestanding(合意書))を、そして売買契約書の締結に至るまで。また異動した技術管理部門では共同開発書も手掛けた。いずれにせよ相手との矢面に立って交渉するのは大変だった。初めて文章に接した時は意味不明だった。

幸いに優秀な法務部門や知財部門のメンツの手助けがあったからこそ、自分のような者でも何とかその役割を遂行することが出来た。

つい先日、昔の会社の先輩方と「飲む」機会があった。一人は退職して異なる会社で、今もバリバリの現役だ。しかし先輩は約束の時間を大きく遅れた。「短納期で40頁の売買契約書ドラフトが送られてきてケリをつけないと。とても間にあわない」というものだった。しかし何とか目鼻を付けてくれて駆けつけてくれた先輩には頭が下がった。「めどは立った」と言われた。

英語の世界からも、会社生活からも身を引いた自分には、「駆けつけ三杯」を美味しそうにゴクゴク飲み干す先輩を前に、そんな先輩のご苦労を懐かしく羨ましく思い出すのだった。

話が弾んだ。「結局さ、英文にせよ日本語にせよ、勘所は支払いなどのビジネスコンディション。でもそれよりも、Warranty(保証)に加えて、Liability(責任)、Indemnification(補償)、I/P(知財)の帰属、Survival(残存条項)まずはこれらですよね。他にもあるけど、キモはココらでしたよね」と、こちらは忘れかかった知識を思い出して話す。すると先輩は言われる。「前の会社なら確かにそうだよね。でも今は会社規模も違うからさCondtionが重要なんです。特に契約書の準拠法。それにArbitration(仲裁)の場所。これも譲れないよね」と言われた。そうだった。被告地主義が全てでもなく苦肉の策でシンガポールにしたこともあった。キーポイントの一つであったことは、疑う余地もなかった。

現役の先輩の話は、説得力があった。

Both Parties herewith agree the following. XXX

The Company ABC Corppration (hereinagter callled as "ABC") of which its business principale located at 1-1 Minatoku Tokyo JAPAN ......

Notwithstanding the foregoing, the parties hereto agree that …

英文契約書ならではの、さまざまな英語の言い回しが思い出された。もっと平易に書くことも出来ように、もって回したような英文契約書の文章。思うに、文字数を稼いで文章に箔をつける。というより、文字数が法律事務所の報酬につながっていたのかもしれない。 初めてはその独特な世界にたじろいだが、そのうちにポイントが見えるようになった。楽ではないが、なかなか面白かったのだ。もちろん、その内容を相手の間で合意という名のもとに落とし込むことは、確かに難しかった。

自分より4歳年上の先輩が、そんなことで今も頭を悩まし、前向きに進んでいることは素晴らしいとしか思えなかった。自分も戻れたら、楽しいだろうな、と言う思いもあった。

頑張れ先輩。僕はもうその現業に戻るには錆びすぎた。しかしその近しい世界で、何かできないかとはいつも思っている。アメリカ出張をしていた頃は現地に駐在されて散々お世話になった先輩も、いつしか今は白髪が増えた。しかし熱意のあるアツい喋り口も、光を帯びた目も、柔らかな声も、すべてが30年前と何ら変わらなかった。

しごかれた契約書。きつかったけど楽しかった日々。頭の完全なリタイアはもう少し後にして、少し自分も歩んでみるか。小さな茨の道を。一昨日からパートタイムの仕事で自分がやるべきことを、英語で独り言で話すことを始めた。下手くそだ。しかしこれは前頭葉の刺激なろう。こちらも錆びぬようにしなくえはいけない。いばらの道も、小さく始めるのが良いだろう。

持って回った言い回しも懐かしい。平易に書いたら分量は三分の一かもしれない。今もそれに格闘する先輩は輝いて見えた。自分も錆び切る前にすこし光が必要のようだ。

 

待ちきれない演奏会 

アマゾンや楽天で買い物をしていたら自分の購入履歴に応じて、好みだろうと勝手に判じられた商品がサジェストされる。その機能に恐れ入って、驚いて、感心したのももう10年以上前だろうか。SNSでもそれは一般的で、FACEBOOKでも次々とサジェスチョンが色々やってくる。いちいち相手にはしないが、おお、と唸るものもある。クラシック音楽演奏会の案内だ。実際そのルートでチケットを買ったこともある。なかなかスルー出来ない。先日、懐かしいピアニストの演奏会の案内が画面に現れた。

ゲルハルト・オピッツを独奏ピアノに迎えたNDR(北ドイツ管弦楽団)の演奏会の案内だった。このコンビはもう20年、いや25年以上前に見に行ったことがある。サントリーホールだっただろうか。指揮はたしかウォルフガング・サヴァリッシュだった。なによりも演目が良かった。ブラームスのピアノ協奏曲第1番を主軸に置いたドイツモノのプログラム。もう一曲はリヒャルトシュトラウスドン・ファン辺りだったかもしれない。

NDRはドイツらしい良い響きだった。サバリッシュとの相性も良かったのだろう。恥ずかしながらソリストのオピッツ氏の事はあまり知らずに聴きに行った演奏会。しかし、このブラームスはとても良かった。ブラームスの協奏曲第1番はやはり透徹した、強い打鍵で聴きたい。CDで聴いていた演奏がそれだからたったかろう。鋼鉄のピアニストと言われたソ連の名ピアニスト、エミール・ギレリスを独奏に迎え、オイゲン・ヨッフムベルリンフィルを振ったCDだった。ブラームスのピアノ協奏曲は2番のほうがより晦渋で規模も大きく好きなのだが、1番での終楽章の畳みかける打鍵の迫力は枯淡の境地ともいえる2番にはないものだ。初めて聞いたものが印象に残るもので、その後に触れたゼルキン・セル・クリーブラント管弦楽団の録音も、ポリーニベームウィーンフィルの演奏も、素晴らしかった。いずれも今も愛聴版だが、ギレリスが原点になってしまう。

演奏会で初めて聞くピアニストの打鍵もはがねのようで、響きも透明だった。「打たれた」とはこのようなことを言うのだと思った。

この演奏会は、会社の同僚の女の子と聞きにいった。妻はあまりクラシック音楽が好みではなくあまり演奏会を共に聞きに出かけた記憶もない。しかしこの女性は音楽全般において自分との好みがバッチリあった。エリック・クラプトンのライブを一緒に見に行ったこともある。ブラームスとクラプトン。その二つで円を描いて、両方の円が交わる部分は狭いだろう。そこにはまったというのも稀有な女性だった。 

彼女はオピッツ氏を好きなようでいろいろ詳しかった。なによりもブラームスが好きというところが嬉しかった。

ブラームスのピアノ協奏曲1番は、その後の2番に比べ、暗くて憂鬱なロマンが溢れる。その溢れ方が激情的なのが特徴だろうか。文献などを見るとこの頃ブラームスは恩人であったロベルト・シューマンが世を去り、その妻、クララ・シューマンへの恋慕が募っていたという。そんな思いと闘うように、ロマンとパッションが強烈にぶつかり合うのが第三楽章。ピアニストにとっても技巧的に難しいという。

その第三楽章で、隣に座った彼女は身動きせずに聴きこんでいた。聞く人を釘付けにするほどの演奏だった。

その後彼女は会社を辞め、自分の夢を求めて「調律師」を目指した。ピアノに、オーケストラに、そしてブルースロックさえにもあれほどのめり込んでいたのだから、今は素敵な、その世界では有名な調律師になっていることだろう、と想像している。

SNSで配信されてきた懐かしのピアニストの演奏会の案内に、指が止まった。独奏ピアノはゲルハルト・オピッツ。オケはNDR。指揮者はアンドリュー・マンゼ。演目も申し分なかった。ベートヴェンか。余り好みではない。しかし協奏曲は5番「皇帝」、そして交響曲は「7番」ときた。いずれも超が付く有名曲。予習のいらない楽曲だ。聴かない訳にはいかないだろう。

迷うことなく反射的に11月の演奏会のチケットを2枚買った。2枚。家内と行くか、クラシック音楽の好きな次女と行くか。その時の話だ。

きらびやかなピアノが、あの懐かしい輝く硬質の音がオピッツ氏によって奏でられるのだろうと思うと楽しみで仕方がない。円熟のピアノに接するのは30年ぶりと言うことになる。ドイツの香りと音がコンサートホールに満ち溢れると考えただけで気が遠くなる。「名調律師」さんも、きっとそのホールに居るのではないかもしれない。

待ち遠しくて仕方がない。いつでも、素敵な音楽の前には、ただ陶酔し、畏敬の念も持ち、ひれ伏してしまう。

PS
動画サイトへのリンクはこちらがあった。
ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ、指揮:クリスティアンティーレマン、オケ:シュターツカペレ・ドレスデン(SKD)。名匠ポリーニ。そしてドイツ人の正統派ティーレマンと、我が憧れのSKD。超絶技巧とそれを引き出すアツい指揮、堂々と応える名門オーケストラ。映像を像見ているだけで、涙が出てくる。 https://www.youtube.com/watch?v=1jB_6fpYY3o

FBからの色々なサジェスチョンは面倒くさいの一言。しかしお世話になることもあるのだ。オピッツ氏の演奏でベートヴェンか。楽しみだ。

 

懐かしの駿東を巡るサイクルツーリング

サイクリングの楽しみ方は人それぞれだろう。

自分は「走りヤ」でもなく「峠ヤ」でもない。「ロングライド」にも関心がない。峠もロングライドも結果であり目的ではない。一人で走る気ままな小さな「旅」に興味ある。気心の知れた仲間と走るのならニ・三人まで。山歩きと同様で、旅は独りか小パーティが一番。それ以上になるとばらけるし、パーティとしての統率、連絡の取り方、行動時間の制約など厄介な事が増えていく。旅が気楽なものではなくなってしまうのだ。

行程中に自己との対話を続けることのできる一人旅が気ままで一番良い。が、もう若くもない。ましてや病をして体力やバランス感覚が大きく変わった。それもあり今も今後も、お相手頂ける限りは独りか数人までの行動をしていきたいと思っている。自己との対話は、同行の仲間と適度な距離感を保つことで、可能だ。

サイクリングでのルート選びの肝は、鉄分補給・・気になる鉄道(多くは地方私鉄やローカル線、昭和の時代の車両が走る鉄道)に出会える事、素敵なB級グルメがある事、そして続けているサイクリング一筆書き(自宅から最終的には一本の線に走った・歩いたルートがつながる事)につなげられそうなこと、あとは何らかの個人的な思い入れのある場所、になる。

そんな観点で選んだ今回のルートは、静岡県は東部。駿東と言われるエリア。三島駅から沼津を経て富士に軌跡をつなごうと考える。鉄分は長年の憧れ・岳南鉄道B級グルメ駿河湾の海鮮。一筆書きは直ぐにはつながらないが、長期的には何らかの可能性があると踏んだ。加えて、三島は自分にとって大切なエリアだ。健常な時も病める時も、この街で勤務をしていた。懐かしいを越えた存在でもある。

いつ行こうか迷っていたが早めに目が覚めた。天気予報も悪くない。それでは、と早速家を出た。

急ぐ必要もない自分は鈍行列車の旅で十分だ。沼津迄は東海道線の直通もあるが国鉄分割民営化でそれも減った。多くの場合でJR東日本JR東海の境である熱海での乗り換えが必須だ。今回は小田原、熱海での二回乗り換えだったが、小田原駅での乗り換えに階段がある可能性も考えその前の国府津で次発を待った。小田原・熱海と乗り継いで見慣れた三島駅に来た。駅が近づくにつれて南側に見えてくる沼津アルプスが思いのほかに立派だと、改めて思う。多くの人は北側の愛鷹山と富士山に目が奪われるのだろう。しかし南にもそれなりにてこずらせてくれる山がある。

三島は東京勤務時代は出張で週に一回は出かけていた。そして事業部の場所が変わりそこで7,8年。更に再び2年程度勤務した街だった。当時は新幹線回数券や定期での出張・通勤。今回はもちろんそれはない。システム上データを通して処理が出来ないのだろう、スイカでの入場はそのままトイカの改札機では出場できない。それももう何年も変わっていない。多分変わらないのかもしれない。

三島駅。すべての風景は懐かしく、というか、全く違和感がない。違いは通勤服ではなく自転車ウェアになり、鞄がどでかい輪行袋になっただけだ。ランドナーを組み立てて走り出す。街の道は住人レベルでわかるので何の心配もない。もう退職してしまった勤務地の前でサドルから腰を外して懐かしい思いを感じていれば、知った顔が駐車場からやって来た。「休日出勤をしている部下に食べ物の差し入れ」と言われていた。彼とも3年近く前までは毎日顔を突き合わせて仕事をしていたのだった。

彼に手を上げて挨拶をして、自分は走り出す。狩野川のほとりは気持ちが良い。井上靖の「しろばんば」を読んでこの川の名前を知ったのは小学生の頃だった。沼津の漁港レストランには急な連絡にも関わらず趣味の農作業を中断して会社の恩人が会いに来てくれた。沼津での海鮮にも舌づつみ。

沼津の海岸を走り鉄分補給へ。今回は岳南電車だ。富士市吉原駅から岳南江尾駅までを走るローカル私鉄。富士市の片隅にある。子供のころ毎夏の帰省に乗った東海道新幹線。車窓から発見した小さな電車に夢中になった。それが岳南鉄道だった。新幹線の高架の下に、時に置いて行かれたような小さな駅があった。昔は人もいたのだろう駅舎も簡素だった。京王の昔の車両、井の頭線3000系、それに本線用5000系がここで第2の人生を送っていた。3000系は7000系と名前も変わっており、ステンプラカーと言われたステンレスとFRPの独特の顔立ちも少し異なっていた。しかし昔懐かしい。井の頭線は短期間だが通学列車だったのだ。ゲージの異なる5000系はどうやって改軌したのか、と余計なことも浮かぶのは鉄分豊富な悲しい性だ。この時が止まった風景のなか遮断機もないのどかな踏切の警報のみが鳴りだして、旧3000系がゆっくりと出発していった。血圧がマックスになり卒倒しそうになる。

直流1500ボルトで単線を走るその古い電車の上を、高架線を交流25000ボルトで走るN700系新幹線が230キロで駆け抜ける。上下の空間にひずみが生じて、自分はそこに吸い込まれそうになった。

こんな田園に単線とはいえローカル私鉄が成り立っているのは利用客が多いからで沿線には工場も多い。もともとが工場の貨物線といういわれという。貨物運輸は廃止となりその後は地味な経営努力もあるのだろう。

鉄分はお釣りが出るほど満たされたので、富士市へ。バイクツーリングで名古屋の友人の家に行ったのは20歳になる前だった。製紙工場の異臭でたじろいだのが富士市だった。今は技術も進み匂わなくなったとは富士市に住む会社の友人からは聴いていたが、どうだろう。そうでもなかった。異臭はやはり漂う。当時ほどではないのかもしれないが。

やや疲れた感じの駅前の街を通り抜けて富士川にでた。これは山梨からや流れ出てくる堂々とした川だ。狭く混んだ鉄橋は嫌だったが細い歩行自転車通路があって助かった。豊かな流れに開放的な気分になった。

橋を渡った富士川駅で旅を終えることとした。この先蒲原由比へと旧東海道の印象を残す道が続くことは知っていたが、脚もそろそろ出来上がっていた。それはまた次の話だろう。

50キロに僅かに満たない走行だったが充実していた。今日の旅はこれでおしまいだ。ランドナーをばらして輪行袋に入れた。疲労も手伝ってか、少し時間がかかった。

学生時代に感じた富士の街の印象はあまり変わっていなかった。それもまた旅の結果だ。駿東の旅は鉄分も海鮮グルメも満ちていた。懐かしい街を走り、予定していなかった人との出会いもあった。駅そばのコンビニで買った缶ビールで心地よくなり上り熱海行きの各駅停車を一人待った。

 

追記
今回の旅で感じた心象風景は、下記にて別稿として記載。
https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/08/27/224644
https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/08/30/004549
https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/08/29/010610

 

井上靖の小説「しろばんば」の舞台たる狩野川川端康成の「伊豆の踊子」では書生さんはこの川をさかのぼり天城に至った。そんな河川は昭和33年に台風で荒れた。「狩野川台風」だ。今は治水もしっかりして長閑な伊豆の風景には欠かせない。

沼津漁港で友と別れ、千本松原を西へ向かう。右手に見えるはずの富士山は雲隠れ。しかし大きな駿河湾は素晴らしい。

長閑すぎる岳南江尾駅。駅舎らしい建物がなかなか見つからない。遮断機の無い踏切を渡ると、昔の京王電車が塗装を変更して並んでいた。

井の頭線を引退した旧3000系がゆっくりと目の前を通り過ぎて行った。

細い線路とはいえ直流600ボルトではなく1500ボルト。しかし頭上の新幹線は交流25000ボルトを受けて230キロで疾走する。時空のひずみが出来て、吸い込まれそうに思える。

のんびりとした踏切が鳴り剣道に遮断機は降りた。待てども来ない電車。すると忘れたころに二両編成がゆっくりと目の前を横切った。これが自分の好きな世界だ。

京浜工業地帯なのだろうか、とも思う。いや、それにしては空が広い。街の基幹産業たる製紙業は技術革新の時期を経てもやはり、本質はあまり変わらないのだろうか。

甲斐駒、鳳凰。そして八ケ岳や甲武信岳。そんな名山で落ちた一滴が沢となり、何時しか集まり大河になる。その河口付近を自転車で渡った。今日の旅はここで終了。最寄り駅までの数キロは、消化試合だ。

今回のルート図。アンドロイドアプリ「山旅ロガー」にてログ取得。カシミール3D上に展開したもの。