日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

うどん王国

うどんを初めて食べた、そう記憶しているのは岡山は宇野から香川の高松へ渡る国鉄連絡船の船上デッキだった。3歳から住んでいた横浜。毎夏母親は実家の香川に長期間里帰りしていた。その際に毎年食べた。駅ホームの立ち食いソバ屋のような小さな店が甲板に在り、船上の客はそれを必ず食べていた。まさにそれは本州で「不本意な」味のうどんを食べざるをえなかった讃岐人の「よ、待ってました!」「帰ってきたよ!」の一杯だったに違いない。そして祖父祖母の家に行くとまずは近所のうどん屋に行き都会の煤を払い、そして翌日からは毎朝小銭を渡され近所の叔母さんが足踏みして作っているうどん玉を買いに行くのだった。瀬戸内海のイリコで祖母が作った出汁のうどんが最高だった。

そんな母も歳を取り、もう10年以上は香川に帰っていないのだろう。母が目下喜ぶのは今は海外も含めた全国展開しているうどん屋だった。そのうどん屋香川県のある都市の名前が冠されているが、そこは母の郷里の隣町だった。連絡船のうどんの記憶が余りにも美化されていたのか、何度足を運んでも自分はその店のうどんには感動しない。本場とは大きく異なる。しかし飽きずに店に行くのは、そこに壁画のように飾られている山の写真があり、それを見に行くというべきだった。讃岐富士・飯野山だった。

飯野山の姿は幼いころから嫌になるほど目に焼き付いている。山好きな自分の原風景でもあった。それは毎年やってくるひと夏の楽しい思い出と、美味しいうどんに直結していた。

そんな飯野山とその横を流れる土器川そしてそれが流れ出る瀬戸内海で洗礼を受けた自分でも、流石にこの年齢になると他のうどんを知り、感動している。福岡や伊勢のうどんは噂に聞くが食べたことは未だない。金色のイリコダシのかけ汁に慣れた自分には関東の黒い醤油っぽいかけ汁のうどんは遠慮したい。しかしつけ汁なら話は別だ。その意味で秋田の稲庭や群馬の水沢あたりのうどんは美味しいと思った。

しかし武蔵野のうどんを知った時、あ、これはまた別の食べ物だ!と感じた。洗練とは縁のないコシのある茶色い麺は素朴さに満ちていた。暖かい肉汁のつけそば。自分の知るうどんと別次元の味覚だった。小麦が良いのか水がいいのか。これはこれで「あり」いや「大あり」だった。

このうどんに会うには武蔵野の北部に行く必要がある。生活圏から離れておりなかなかお会いできない。しかしその話をサイクリング仲間に話すと、即座にそれを入れたサイクリング案を作ってくれたのだった。もちろん、相乗りさせていただいた。

再訪だった。4,5年前に家内と訪れた時は狭い店だったが、店内改装をし客席が増えていた。駐車場も整地されていた。この数年と言えばコロナですべてがシュリンクしていたはずだが、この店はその前かその最中に地道な努力をしていたようだった。それが奏功したのか店の回転も早く待ち時間も30分程度だった。そこまでやって、武蔵野のうどんのすばらしさを伝えたいのだろう、と、店主の意気込みを感じたのだった。

久々の一杯はやはり野趣あふれて美味しかった。地粉感が強く、つけ汁の肉に至ってはラーメーン屋のチャーシューのレベルが如きだった。前回はタダの豚バラスライスだったような記憶なのだ。

美味しく頂きサイクリングのランチタイムは終わった。共に走ってくれた友人への感謝が味をさらに引き立ててくれたようだ。香川ばかりでなく武蔵野もまた「うどん王国」だった。きっと「うどん王国」はまだまだあまたある事だろう。知らない事ばかりだ。楽しい限り。

香川のある都市の名前を冠したうどん屋さん。今や全国区で海外進出も果たしているという。その壁面にはあまりに懐かしい我が讃岐富士・飯野山の写真が大きく飾られている。鉢巻のようにぐるりと山を回る登山道を経ると、意外に広い山頂だ。この風景に会うために、また行く事だろう。

武蔵村山の「かてうどん」。マップがあるほど市内にはうどん屋も多い。いずれも地粉感の強い素晴らしいうどんだ。この肉キノコつけ汁はまさに絶品だった。今回はうどんの耳が店名がごとく「うさぎさん」に進化していた。

数年前に行った時は大行列だった。店主さんの地道な努力で客室が増え、回転が速くなった。ありがたい限りだ。