日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

天婦羅せいろ、大盛で

一人住まいの母を蕎麦屋に連れて行ったのは母が蕎麦を食べたがっているからだった。父も母も四国は讃岐の人間だ。讃岐はうどん。自分も香川生まれで、物心ついたころからうどんを食べていた。我が家は当時転勤で横浜に住んでいたが母と自分達姉弟は夏休みの度に一月間、讃岐に里帰りをしていた。岡山の宇野から自分の生誕地高松までは国鉄の連絡船が運行していた。そこの甲板で食べるうどんが香川からの歓迎の使者だった。

母の範疇では麺類と言えばうどん、そして支那ソバしかなかった。祖母の家の裏手には屋台に毛が生えたような支那ソバ屋の店があった。うどんを食べてから支那ソバを食べる。いずれも横浜よりもずっと美味しかった。自分の味覚はこうして形成されたのだろう。

両親ともに蕎麦を食べているのを見たことが無かった。父は営業と言う仕事柄色々なものを食べていたのだろうが、なぜか蕎麦屋に一緒に行った事は無い。当時は「丸亀製麺」もなくやたらに真っ黒な汁にコシの無いうどんしかなかった。これには両親は閉口していたのだろう、食卓に上がった記憶はない。幸いに成長に伴い自分は様々な食に触れた。学生時代の一人住まいで駅の立ち食いソバの虜となった。通勤の私鉄の駅にあったソバ屋だった。が、いわゆる盛り蕎麦に行きつくには社会人まで時間が必要だった。

東京のオフィス街でじわりじわりと店舗を広げていたチェーン店がある。そこのソバは美味かった。のど越しとはこのことか。この店は椅子こそあれど立ち食いの簡易な店だった。しかし固まった麺を湯がくだけの駅ソバとはまた違う。粉のついた切りたての麺を大釜で茹で蕎麦湯も出していたのだから。

池波正太郎の文章を読むと蕎麦は如何にも粋な江戸っ子の食べ物だと思えてきた。神田の老舗にも行った。衝撃は信州だった。長野市の裏手、戸隠神社の門前は蕎麦屋の聖地だった。のど越し、香り、出汁、すべてが初体験だった。山梨も栃木もそばは絶品だ。やせた土地がある場所には美味しいそばが在るのだった。

母はこの味を知らないだろうな、と思い近所の店に連れて行ったのはまだ歩行が自分で出来ていた頃だった。蕎麦屋を前にして母は言った。「へえ、日本蕎麦屋!」と。日本蕎麦とはいかにもうどんと支那そばしか知らない母らしい言い方だった。冷たく腰のある蕎麦は二八だった。天婦羅もついていた。気に入ったのだろう、その後も「日本蕎麦が食べたい」と口にした。何度が行ったがやがてコロナが流布し自分も病で倒れた。戻ってくると今度は母はもう歩けなっており要介護の認定が下りていた。

母を好きか?と問われると僕は答えに窮する。結婚相手は母の望んだ女性ではなかったのだろう、なにせ見合い結婚しか知らないのだから。様々な言いがかりを言われ自分は腹が立っていた。又長男は親の面倒を見ると言う価値観も嫌だった。自分は家族のために敢えて実家に行く事を避けた。いつか母の顔を見るとむかむかするのだった。しかし要介護になりそうも言ってられなくなった。母が期待をしていた姉はもう世を去っていた。

母の誕生日だった。それを教えてくれたのは妻だった。更に彼女は続けた。「どこかお昼でも誘ったら?」と。胸にこみあげる不快感があったが、確かに自分を産んでくれたのだった。否定できなかった。

久しぶりの蕎麦屋に母は喜んでいた。メニューを広げて天婦羅せいろを指さした。大盛が食べたいという。いつもの自分なら目くじらを立てて怒るだろう。「大盛だよ、食べられるはずがない。勿体ない」と。しかし余りに嬉しそうなので、抑えた。箸を上まで上げて汁に付けてすすることはどうも肉体的にもう出来ないようだった。麺をゆっくりとつけ汁に移しながら食べていた。それでも言うのだ。ああ、美味しいと。

自分が孝行息子とは思わない。しかし食欲が旺盛な母を見て少し安心した。人間の衰えの第一歩は食欲の減少と言う。目下のところは何もないのだろう。負けじと頼んだ大盛り蕎麦は自分にはやや辛かった。食べ終えて肩で息をする始末だった。ああ、また今度ここに来るか、とため息をついた。満腹すぎたのか面倒なのか、自分でも分からなかった。

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