日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

絞られた大倉尾根・塔ノ岳

丹沢主脈の表玄関と言えば塔ノ岳(海抜1491m)。ルートは幾つがあるがバス停のある大倉(海抜290m)からが一般的だろう。その標高差1200mは一日のアルバイトとしては自分にはきつい。日帰りの山では800m程度のルートを選ぶのだから。

このルート、大倉尾根の俗称は「バカ尾根」。その名がこの尾根の愚直なほどの長さと登りを示している。

北アルプスや飯豊などの大きな山に入る時にはこの1200メートルがベンチマークになる。バカ尾根よりキツければ日帰りとしてはかなり悩むし、そうでなければなんとか行けるか、となる。

脳外科手術と科学治療後。頭には常にしびれと欠如したバランス感。弱まった体力と遅くなった歩行速度。そんな自分の限界を知りたかった。以前のように登れるのだろうか、バカ尾根を。

結果的には絞られた。キツイを通り越していた。スタミナもそうだが、左足がつってしまい、山頂断念かとまで思った。ふくらはぎに続いて大腿四頭筋まで。ウォーキング、ジム、サイクリング。病後にも注意しながらそこそこ鍛えているはずの足の筋肉は歯が立たなかった。

意図的に水分を多く取り、足の「つり」の特効薬と言われる「芍薬甘草湯」を取り出して飲んだ。一息ついて這うように山頂へ、最後の階段道は、無限だった。

筋肉が冷え固まる前に下山。しかし今度は右足にも来た。水分を摂り少し経つと、歩けるようになる。その繰り返しだった。

山と高原地図2011年度版ではコースタイム登り3時間30分。下り2時間20分(休憩なしのコースタイム)。それを自分は登りに4時間20分、下りに3時間5分かけた。それぞれに休憩を入れたにしても時間がかかった。登りでは堀山(943m)に立ち寄りアマチュア無線運用をしたがそれによるロスも5分程度だろう。

脚の痙攣に加えて、体力が極限だった。雑巾を絞るようにして出していたエネルギーも、最後には絞っても何も出なかった。いや、絞る事すらできなかった。

幾つかの後悔を下山後にしている。次回には生かそうと思う。

・標高差が大きくとも、日帰りの山だった。その意味で、休憩には無頓着で登った。大きな山や縦走では、1時間歩いて10分休み、そこで水分補給とチャージ。それがルーチン。次回の休憩は何時に、と決めて登るのが定石だった。 日帰りのハイキングでもそうしてきたが、だいぶ前からそれもしなくなった。足が進むうちは「きりがいい」ところまで歩こう、としていた。きりなど山頂迄になかなか来るものでもない。「初心忘るるべからず」というのに。
・もう真夏の山ではない。汗も少ないだろう。夏山に欠かせぬミネラル補充。塩分チャージ飴やアミノ酸サプリなどを持ってこなかった。
・水分補給が十分でなかったのではないか。休憩が少なければ、結果的に水分補給は減るだろう。

登山での足のつり・痙攣は水分不足、ミネラル不足、筋力低下、体温低下がある、とサイトで書かれていた(*)。日頃のトレーニングや季節がら後者2点ではないだろう。

久しぶりの大蔵尾根はきつかった。絞ろうにも残滓ゼロ。滓まで出した。

大蔵尾根は25年ぶり?くらいだろうか。記憶の中の風景は変わっていた。コースタイムを切って登った記憶のみがあった。何度登り、何度下ったか、その記憶も判然としない。きついけど、辛くないルートだった。今も同じわけがない。

しかし、塔ノ岳からの展望は素晴らしかった。最高峰の蛭ケ岳は雲の中に隠れていたものの不動の峰やその西方に続く檜洞丸への稜線は大迫力だった。丹沢主脈・丹沢主稜。「丹沢ってこんなに見事だったっけ?」と思う。あの奥まで、久しぶりに歩いてみたくなる。そんな風景だった。下山の辛さに耐えかねて、バカ尾根にある花立山荘と観音茶屋でかき氷と牛乳プリンを食べた。お手製の素朴なものが、信じられない美味しさだった。

自宅のベランダから毎日眺めることのできる丹沢の稜線。冬はくっきりと見える。もっぱら自分の興味は富士の展望ではなく、その右手の丹沢の山並み、そして真冬の少ないコンディション時のみに見える南アルプス北岳に釘付けになる。丹沢の山並みではどでかくみえる大山の右隣に目立たぬように立つ山が塔ノ岳だ。

翌日早速ベランダに出て、苦戦した見事なピークを視認した。わずかの時間で、まだ夏の名残を漂わした雲に、山は隠れてしまった。

参考サイト:(*)https://greenfield.style/article/110205/

多くの山がそうであるように大蔵尾根も登りはじめは杉や檜の人工林。高度を稼ぐとブナやコナラの自然林となり、その緑に癒される。

夏雲をまとう富士山を西に見る。富士と愛鷹山の位置関係がよくわかる

立山荘まで頑張ると目指す塔ノ岳が近くなった。

塔ノ岳山頂からはさらに奥へ。主稜・主脈の山々が深い。

塔ノ岳山頂の尊仏山荘は昔と変わらなかった。何度泊っただろうか。ある冬の夜。凍てつくガラス窓から見た関東平野の明かりを忘れることが出来ない。窓の水滴が滲んで、明滅するかのような街の灯だった。

関東平野からは無神経なほど大きく立つ「大山」も、塔ノ岳から見れば眼下だった。

 

ガンボ風?アボガトとサーモン冷製パスタ

ガンボ。ニューオリンズに出張に行った際に食べてとても気に入った料理。甲殻類や野菜のゴッタ煮スープ。これが味わい深かった。観光名所となっているフレンチ・クォーターはバーボンストリートで食べるルイジアナ料理。ガンボをバゲットで頂きバーボンに酔う。街からは陽気なケイジャンミュージックが流れ、ますます酔っていく。ストリップショー、ダンサーの胸元へ挟むドル札。今でもそんな風景はあるのだろうか? そんなカルチャーまでもがゴッタ混ぜ。フランス系移民とアフリカ系住民の文化がフュージョンした街の魅力だろうか。

ガンボはなかなか手が込んでいてとても自作できないが、ごった煮を「なんでも混ぜる」と解釈するならば、得意だ。なんでも混ぜるというよりは冷蔵庫の残り具材をなんでも有効活用するのだから。

何度かトライしたサーモンとアボガドの冷製パスタ(*)を、焼き直した。冷蔵庫にあるものを自在に応用、そこが「ガンボ風」だ。

テレビ番組で見たレシピ通りに沿っていたが何度か作るうちに適当になってしまう。厳格に物事をやることのできない自分の欠点だ。しかし、今回は「ガンボ流」つまり、なんでもゴッタに突っ込むという意味で、以外に良かった。

以下二人前(以下を三人前で分けたら、スープ不足だったので)

(1)トッピング具材

アボガド1個・・ざく切り
サーモンー切身・・・・生食向きのサーモンを使うべきだが、冷凍庫に生食不適切のサーモンがあった。紅鮭だ。
ピーマン・・・高原の友人の手作り野菜 とても立派。
イタリアントマト・・・同じく友人の手作り野菜。生食向きではないですよ、と念を押された。
しめじ・・もう初秋。キノコを入れたいと思った。スーパーのお値打ち品棚から一パック。その1/3程度を使用
セロリの葉っぱ・・みじん切り
バジル・・スーパーのお値打ち品50円
ニンニク 二カケ
調味料 醤油、オリーブオイル 各大匙1、レモン汁適宜

これらをひと口大にカット。サーモン、ニンニク、しめじとセロリの葉ははオリーブオイルで焼く。鮭の皮をはいでそれはニンニクみじん切りと一緒ににカリカリになるまで焼き細切りに。細かく切ったバジルと共に最後に載せる

鮭の皮とニンニク、バジル以外は調味料を混ぜ、ボウルに入れて冷蔵庫で冷やす

(2)ソース
ツナ缶(一缶)
トマトソース(180㏄)
醤油 大匙1
麺つゆ 小さじ1
練チューブのバジル 1センチ程度
オリーブオイル 大匙1.5
上記をボウルに入れ、冷蔵庫で冷やす

(3)パスタ
本来はカッペリーニ。しかしスーパーでは高かった。手持ちにスパゲッティ(1.6㎜)があった。一人前110gが我が家の基本。

(4)製作
アルデンテに茹でたパスタを水で締める。布巾・ペーパータオルで水分をふき取る(重要)。(2)ソースに投入。手でパスタを汁にコネコネと馴染ませる(重要)
皿に盛って(1)トッピングを載せる。軽くコショー。

さて、家族の品評会。今回三人前になったのは、結婚して家を出た娘が遊びに来たからだ。「ガンボ」のように色々なものがゴッタに入った冷製パスタ。まずは焼いたサーモンもイケた。なによりも友人宅の庭でとれたイタリアントマトとピーマンが、香り豊富だった。作りながら気になった「セロリの葉」と「バジルの葉」。ともに強い風味だが特に喧嘩しなかったようだ。最後のアクセントの「鮭の皮のカリカリ焼き」。これが炒めニンニクと相まって、美味しい。

新旧二人の主婦からのそんなコメントともに合格点を得た。一人は既にセミ引退で旦那の作る料理を食べるだけ。しかしもう一人の若い主婦は現役。もっとも会社も忙しくなかなか料理に没頭できないと嘆いていた。若い主婦は自分も作ってみたいというので、喜んでレシピを伝えた。大酒のみの彼女は休日出勤明けの旦那様が早めに帰ってくるから、と、いつものお酒は封印していた。安物ではあるが折角のチリワイン白は、セミ引退主婦と楽しむこととしよう。

何度か作った料理も自己流に、冷蔵庫の中身に合わせて変わっていく。レシピ考案者としてはつまらない話だろう。そこは一つご勘弁を。

(*)https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/07/13/004402

美味しい食材があれば、どんな料理も引き立つ。友人お手製の大地の恵みをありがたくパスタにした。

ボウルにトッピング具を入れていく。生サーモン切身がこの料理の肝と思っていたが、実は火を通したサーモンでもイケた。生食用を買っていなかったのだが、これも楽しい発見だった。

セミ引退主婦と、若い主婦、がいらっしゃった。三人前の料理を作ったのは、とても久しぶり。新旧主婦のお墨付きが得られた。

 

再会のイタリアン

旅先で知人にばったり会う。そんな事はあるのだろうか? ましてやそれが日本ではなく外国で。もしそんなことがあればそれは何かの「啓示」に違いない、信心の無い自分のような人間でもそう思うほど稀有な例だろう。

家族四人で中部ヨーロッパの街を旅した時の話だ。音楽の都、と言われるその街は自分にとっても特別で、憧れのオーケストラホールがある。ムジークフェラインザール(楽友協会)と呼ばれる黄金のホール。今では日本でも元旦になればそこから生中継でかの地の素敵な音楽、ワルツやポルカが流れてくる。このホールの響きは独特で、それに惹かれてこのホールで録音された音源ばかりで音楽に接してきた。

そんな音楽ばかりではない。フェルメールブリューゲル。好きな絵画もある。石畳に古びたトラム。旧市街の広場には尖塔が立ち、蹄の音も高らかに馬車が街の中を往く。栄華を誇ったハプスブルグ家。その名残が、中世ヨーロッパが残った街と言えるだろう。

そんな街の憧れのオーケストラホールで家族四人で入場の列に並んでいたら、目の前に居た東洋人のご夫婦が日本語に反応してかこちらに振り向いた。

あぁ!

えぇ!
なぜここに?

会社の先輩、それもご夫婦だった。自分が新入社員で入社した時にはお二人は既にご結婚されていた。先輩は自分の配属先ですでにベテランで海外営業のイロハを教えてくれた。ご夫婦レベルでお付き合いをさせていただき、自分が結婚した後も家族で都内のご自宅に遊びに行ったこともあった。奥様は人形作りが好きで幾つものお手製人形が棚に飾ってあった。幼い娘はそれを欲しがった。奥様は笑顔で譲ってくれて、とても恐縮した記憶がある。

旦那様とは直接の職場は離れたが、同時期に欧州のそれぞれ違う国に転勤していた。ご夫婦で会うのはその時以来だから15年ぶりくらいだったろう。欧州の古都での偶然。スーパーコンピュータあたりに2名と4名がばったり会う確率をはじいて貰うならば、その小数点以下は天文学的な桁数になるだろう。

演奏会の後は街のレストランに繰り出し、ビールを重ね、ザワークラウトが添えられたブラットヴルストやシュニッツエルが前に並んだ。アイスバインにシュバイネハクセもあったかもしれない、それは楽しい夕餉だった。

先輩も自分もお互いが忙しい時期だった。帰国時期も異なり、帰国してからの配属も変わりオフィスで顔を合わせることも少なかった。いつしか定年を迎えた先輩は送別会での再会の後ご夫婦でアジアの国へ向かわれた。ご自身が駐在されたことのある地でゆっくり暮らす、という事だった。

そんな先輩が何年か経ちSNSでの連絡をきっかけに帰国すると知り、すぐに再会となった。再会の地はある街のイタリアレストランだった。もう数十メートル前から、お互い夫婦を認識しあった。

元気そうだね
久しぶりです。

四人ともに同じ会社で勤務していたからではの懐かしい人たちの話。娘を連れてお邪魔した頃の話。欧州の古都での偶然。それぞれの時間の歩み。そんな話題で話が尽きなかった。

先輩はどちらかというと無口で、奥様が場を明るくするように話を向けるのも懐かしかった。二人でのアジアの周辺国旅行や、夫婦ゴルフの話も楽しそうだった。今も変わらぬ仲の良さは、自分たちが家庭を持ったころに感じた素敵な雰囲気と何ら変わらなかった。

思い出した。結婚した頃、ああ素敵な夫婦だな、あんなふうになりたいな、と二人を前にして思ったのだった。今風に言うならば、「夫婦のロールモデル」をそこに感じたのだろう。

先輩ご夫婦を前にして思う。様々な夫婦のカタチがあるだろう。友人のあるご夫妻は定年時期に都会を離れて二人して「田園の人」となり、ともに豊かな時を過ごされている。自分たちが彼らに会いに行くのは彼らの住む地が素敵なこともあるが、いつも楽しそうな彼らの人となりに接したいからだ。

夫婦で共通でやりたいことを見つけ楽しむ。相手の事を省みず自分のやりたいことに熱中する。それぞれが自分たちの道を見つけて楽しむ。つかず離れずの夫婦もあれば、それぞれが独立している夫婦もある。べったりの夫婦も、空気の様な夫婦も、もちろんあるだろう。

どれもが正しいだろう。正解は一つではない。ただ懐かしの夫婦が昔と変わらぬ雰囲気を持っていることが、嬉しかった。それぞれに山も谷もあっただろう。いつも感謝がありお互いを思いあっていれば、これからもつつがなく過ごしていけるだろう。間違えなく相手が居なければ、今の自分の生活はなかったのだから。

再会のイタリアンには懐かしさと、未来への明るさがあった。遠く離れた地での稀有な再会が何かの「啓示」であったならば、そのメッセージは「二人で生きるとはこういう事だよ」という内容だと思っている。

夫婦そろっての再会はイタリアンレストランで。



高原のベーコンとバゲット

とある高原の、自家製ベーコン屋で購入したベーコンを美味しく食べている。もったいないので少しづつしか食べられないという自分の性分は情けないが、長持ちさせたいものだ。

昨日はフライパンで温めただけで、バゲットにチーズと伴に載せた。ベーコンのチップの香りが高原の森を想起させる。スーパーで買ってくるベーコンとは別物だ。その製作工程を実際に見せていただいただけたこともあり、納得の味だった。塩加減も香りも申し分ない。シンプルな、料理と言えない一皿でも、ワインと共にバゲットが進んだ。

そうだ、これまた、バゲットが美味しかった。高原のベーカリで買ったもの。ここにはフランスの「バゲット」がある。自宅周りのスーパーのベーカリでは同じ名前で似ても似つかぬものが出てくる。パンナイフを入れるとそのパンは、何と「へこむ」。柔らかいのだ。そんなバゲットを通じて分かったことは、多分日本人はパンに柔らかさを求めるという事。確かに食パンのTVコマーシャルなど、パンがまるでスポンジのように柔らかい、それを美味の証として宣伝している。それも良くわかるし否定しない。しかし、バゲットに関しては柔らかさで来られると「困る」。

バゲットがこういうものかと知ったのは、フランスでの生活だった。なにせバゲットを求めて暴動が起きた国だ。主食だからそれは分かる。日本のコメ騒動と同じだろう。バゲットは棒のように固く。皮はパリパリ、カリカリ。パンナイフでは「押し切る」のではなく「鋸のように切る」。フランス人はパンナイフで切る事もなく「千切る」。それには結構力が必要だ。バゲットの中身も又決して柔らかくはない。空気穴が開いていて、むしろ食感は硬い。コシがあるというべきかもしれない。適度な塩分と混ざり、切ったバゲットだけで食べられる。むろん、カマンベールでもあれば、美味の無限地獄だ。

大都会・首都圏。もちろんそんなバゲットを出す店もある。何といってもフランスのブーランジェリーのチェーン店が出店しているのだから。しかし近所にはなく、デパートでの出店などのお洒落な箔付けも手伝ってか、なかなか味わえないのだった。在日フランス人が暴動を起こさないか心配になる。そんな中、高原産の貴重な一本は、バゲット本来の味と、素晴らしいベーコンが手伝い、たちまちにして消えた。

翌日の夕食。スーパーのベーカリーのバゲットは見定めて遠慮した。代わりにパスタとした。手の込んだものは作りたくなかった。入手した高原のベーコンを使いスパゲティ・アリ・オーリオ・ペペロンチーノでも作るか。何と自宅にはアリがなく、チューブ入りのニンニクとなった。ペペロンチーノも高原の道の駅で探したが残念に品切れ。農家お手製のあれもとても辛くて美味しいのだが、残念。袋入りのメーカー品に。高原のベーコン以外にメーカー品のベーコンも一切れ残してあったのでそれも使った。付け合わせには冷凍していた小さなハンバーグ。豚ひき肉と玉ねぎだけで練るだけの簡単なものだが、肉汁に加え赤ワインとケチャップ・トンカツソースで簡単に作るソースはなかなかいける。それにオリーブオイルと塩コショウのトマトサラダ。

ベーコンの違いが明らかだった。やはり香り、塩分。「これだね!」と家内と頷きあって、再びワインが進んでしまった。

ベーコンもバゲットも、色々ある。手近なところで、気に入るものを探してみよう。多少値段が高くても、許してはもらえぬか。コストばかり気にすると、心もすさむ。すさむのはコロナ禍だけで充分だ。

固い皮、沢山穴の開いたコシのある中身。適度な塩分。フランスのブーランジェリーでは袋に入れることもせずに、真ん中あたりを紙でくるんで捻じり留めるだけ。初めて見た時に小粋だな、と思った。このベーカリーは専用の紙袋に入れてくれる。

これをパンナイフで律義にカットは日本人の証。そこに火を少し通したベーコンと安いチーズ。ワインが進んで、危険。

高原のベーコンとメーカー品ベーコンが混じってしまった。味に鈍感な自分でも、鼻が動いて違いは明瞭。

 

全く、厳しい

動画サイトのお陰でさまざまな素敵な映像との出会いがある。

オーケストラの練習を延々とやる動画などは、好きな人には興味あるだろう。音楽評論家・吉田秀和の著作に自身のヨーロッパ滞在時期の記憶として書かれた一文があり、古びた文庫を引っ張り出した。「滞在時にテレビでシューベルトハ長調交響曲の「リハーサルの映像」と「本番映像」を二日に分けて演奏する番組がありとても楽しめた。「考える人間としての大人のための番組」であった。」そんなことを書いていた。当時の自国のテレビ番組の質を揶揄していたのかもしれないが、実際にネットで触れることのできるオーケストラの練習映像は飽きない。

演奏会では淀みなく演奏される曲も、細かい事の積み重ね。それがわかるのが楽しい。それはそうだろう。何十人ものオーケストラと弦、管、打楽器と異なるパートをまとめていき、カタチを作るのだから。

感心を通り越して畏敬を覚えさせる映像があった。カール・ベームだ。演目はリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」。ベームベルリン・フィルと残した同曲の演奏は自分にとっても大切な一枚だが、この練習映像はウィーン・フィルと組んだものだ。

数小節ごとに都度タクトを止める。愛想のない不機嫌そうな顔をして、細かいことを指摘していく。

「三連符はきちんとダウンビートで、もっとピチカートを!」
「いやいや、もっと少しづつ進めよう。さもなくば時間がかかる。」
トロンボーンはパリパリとしたフォルテを出してほしい。そしてクレシェンド。第3トランペットはブロードなフォルテで。」
「シュスターさん、楽譜では「木のスティックで」とある。しかしノーマルのスティックでやっていて音が冴えない。Bにうつる5小節前だ。」
「第3トランペットが不十分だ。設定が低いからだ。Aからまた始めよう」
「出音はダイナミックだったが早すぎる。」
「ここまではエクセレントだ。三連符がいつもアップビートでやっている。正確にダウンビートで。そこがとても重要なんだ」
「ハープはもっと目立ってほしい。テーマをより透明に弾いてほしい」

こんな具合に、ガミガミ声で指摘する。吉田秀和の著作によれば、ベームオーストリアはウィーンの南西の街グラーツの出身で訛りがひどかったという。それで容赦なく楽団に檄を飛ばすのだから楽団員も確かにたまらないだろう。今でいえばパワハラレベルかもしれない。ウィーンフィルのメンツがここまで絞られるとは思いもしなかった。特に名指しで指摘された第三トランペット奏者はうーんと首をかしげる

リハは数小節ごとに停止するが、確かに指摘事項が反映されていくと曲が変わっていくのが素人の耳でもわかる。マクロを把握してミクロを詰める、ではなくミクロを積みあげてマクロにまとめる。そんな事だろうか。

ベーム翁は渾身の力でタクトを振り、欲しいフレーズを「歌う」。唸っていると言うべきかもしれぬ。練習は、全く厳しい。

こんな風景はしかし、自分にもわかる。バンドの練習で自分のパートではよくある話。ドラマーからキメのタイミングのずれを言われる。良かれと思いオリジナリティでスタッカート気味にすると原曲通りに伸ばしてほしい。と言われる。ギター陣からはそもそもコピーしているメロディが違うだろう、とも指摘される。いずれももっともな話だ。指摘された内容はとても初歩的で恥ずかしいものばかりだ。自分流にやるのはしっかりコピーしたうえでの話だろう。

カール・ベームウィーン・フィルの名誉指揮者に任じられて1981年に世を去った。彼がウィーン・フィルで、ベルリン・フィルで残した作品群に触れることが出来るのは幸せだ。実際自分のコレクション、モーツァルトシューベルトブラームスブルックナー。このあたりはベームの録音で最初に触れて、いまも不動の場所にある。これらの総ての録音の裏にはあの重箱の隅をつつくような指摘が繰り返されて、壮大な音の絵巻に至ったかと思うと感慨深いものがある。

指揮者のタイプによってはポイントのみを押さえて後はオーケストラの自発性を引き出すタイプもあるだろう。色々だ。そんな光景に触れると、指揮者の人間性にも触れるような気がする。結局は音楽も人が奏でるもの、集合で奏でるもの。人同士での信頼関係が出来てくると、コミュニケーションも容易になるのだろう。オーケストラやバンドだけではない。ソサエティで、より小さなコミュニティやもしかしたら夫婦間でも、共通の話かもしれない。

コミュニケーションが一番大切。話を聞き、自分を語る。わかってはいるが、さて自分はこれからどう人様と交わればよいのか、と思うと頭をひねってしまう。


・参考図書:「世界の指揮者(新潮社文庫)」「ヨーロッパの響・ヨーロッパの姿(中公文庫)」ともに吉田秀和著。

・関連映像はこちら。
カール・ベーム指揮 Rシュトラウス ドンファン https://www.youtube.com/watch?v=SKqPrtLLHLQ&t=213s 

カール・ベーム以外にも、敬愛するクライバージュリーニのリハーサルサイトも面白い。いずれも彼らの自家薬籠中の曲だ。
カルロス・クライバー指揮 ヨハン・シュトラウス 歌劇こうもり序曲 https://www.youtube.com/watch?v=NVk2Glu-7kM&t=1808s 
金管にリクエストあります・・・」
「ここはもっと軽めに、より透明に」

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ブルックナー交響曲第9番 https://www.youtube.com/watch?v=hPTIoYMaqJ4&t=289s
「第2、第3トランペットにお願いがあります」

20代に熱中して読んだ本。自分の嗜好を決めるのに影響を与えてくれた。



谷戸の奥へ。鶴見川源流のサイクリング

谷戸。谷地。響きが良い。何か惹かれるものがある。

丘陵地から複数の枝尾根が発生する。その間にはいつしか水が湧き、谷が形成される。沢の誕生。深山ならばそれは深い谷になりやがて大きな川になる。神奈川県の下末吉台地や東京都の境、多摩丘陵あたりでは、ちいさな流れはゆったりと平地に入る。そして豊かな土地が広がっていく。下流側から見ると広い谷がゆるやかに狭くなり、そしてみるみる小さな森と丘に囲まれる。これが谷戸地形・谷地地形。

何故谷戸に惹かれるのか。洞窟探検でもないが、大きな間口から深い奥行きを見るならば誰しもそれを探ってみたくなるのではないか。水があり、奥行きある谷間。その思いはある種の「母体回帰」かもしれない。またそんな自然の残る箇所は豊かな生態系が残り格好のビオトープ。惹かれるのは当たり前だろう。

自宅のすぐそばにも谷戸はあるが、寂しい事に開発されつくしてしまい、無理に作った道路と急斜面に立つ家ばかりだ。もう少し自然豊かな谷戸に行きたい。そうだ、鶴見川の源流はどうなのだろう。素晴らしい谷戸になってはいまいか。

この川の名が冠された街には通して40年以上住んでいる。昭和40年代の臭くて汚い川の時代から治水工事も浄化工事もすすんだ今に至るまで、長い時間を共に過ごしてきた川だ。源流は何処だろうか、興味はあり以前から地図で追っていた。なるほど、多摩丘陵南麓か。遠くはない。そしてこれは地図で見つけたのだが、漢字は異なるが自分の苗字と同じ町が流域にあることを知り、それも魅力的だった。

小田急線より北、京王線より南。横浜線より東、そして南武線より西。これらに囲まれた不等辺四角形は自分にはあまり土地勘のない場所だった。行政単位に落としこむと、横浜市青葉区川崎市多摩区、町田市、稲城市、多摩市、日野市の一部、そんなエリアになろうか。しかし鶴見川の源流をさかのぼり自分と同姓の街に行くならば、この未知なる四角形に踏み込むことは必須だった。

多摩区に住む自転車仲間はこの界隈に詳しい。走りたい旨を伝えると、さっそく計画が送られてきた。コロナに罹患し少し実施は遅れたが、彼との前回の自転車旅のエンディングが少し心残りだったので、「餃子とビール」をキーワードに加えて、小さな旅に出た。(*)

・自分の自宅からの一筆書きサイクリング軌跡につなぎたい
谷戸を探りたい
鶴見川の源流を見たい
・自分と同名の街を走りたい
・餃子とビールで、前回と今回の旅を締める

そんな我儘に、友人は直ぐに応じてくれた。

鶴見川は全長42キロとサイトでは書かれている。自宅は河口から遡る事約6キロ地点が近い。すると源流迄残り36キロ。自宅から自走出来る距離でもあるが、締めがビールと餃子なので、そうもいかない。まずは「脚力保存」と横浜線長津田駅まで輪行した。ここには鶴見川水系恩田川が流れている。自分のサイクリング一筆書き軌跡は恩田川と自宅を結んでいる。ここから恩田川に沿って走る事で、軌跡の一筆書きは、まずは成就できる。

いつものイタリアン・クラシックロードにまたがった友人が駅前で待っていてくれた。自分は今日の相棒にはいつものランドナーではなく、久しぶりのフレンチ・クラシックロードを選んだ。

このあたりをよく走るという友人に具体的なルート選びをお願いすることになった。今日はルート選択で頭を使わない。大変にありがたい。ソロの多い自分は計画立案も大きな楽しみだが、その地に精通されている方にはありがたくお世話になってしまおう。前回サイクリングにて友人のルート選びの「癖」と走りの「呼吸感」はよくわかった。それは自分には心地よいものだった。

宅地から谷戸へと「八幡の藪知らず」のようなルート選択で友は進んだ。教科書に出てきそうな見事な谷戸の入り口に魔法のように辿り着いた。左右に尾根がありそれが目の奥で狭まる。間の谷は田んぼで、稲穂が重い。田は空間の奥までつづいていて、ここからでは果てが見えない。自転車でそこを辿る方もいれば、スケッチをする人、望遠レンズで鷹の飛翔を捉えようとしている人。谷戸に惹かれてやってくる人々は自分と同じ世代だった。自分が童謡「古里」を口ずさむなら、かれらも間違えなく歌をあわせるだろう。ウサギは居ずとも、小鮒ならかの川に居るだろうと思う、そんな想像をしていると、目の前をトンボが飛翔した。季節になれば、蛍も出るだろう、そんな谷あいだった。

実り豊かな田んぼのあぜ道で友は座りおにぎりを食べていた。米の味をしみじみと味わえる塩むすびを食べながら言うのだった。「ご飯が美味しいな」。何にせよそれなりの労力をかけるのが農作業。ありがたい話と、自分も思う。

谷戸から戻ると鶴見川沿いになった。走り慣れた下流中流での盛り上がった土手道はもはやなく、堀割状の川に沿って歩道自転車道とかかれた舗装路が伸びていた。小田急線を鶴川駅で渡る。道は時折川を離れ少し登っては川の横手に下る。何度繰り返したことだろう。つかず離れずともにする水の流れは細くなり、上流近しを思わせた。

友が自転車を止めて交差点を指さした。なるほど漢字こそ違うが、自分の苗字と同じ名前のついた町の看板がかかっていた。香川県西部にしかない自分の姓となにか関係あるのかもわからない。東京都町田市を走る神奈中バスも小山田がその終点だった。そこからは鶴見川の源流はすぐそばだった。

期待していた源流は谷地の最奥から一滴がこぼれ落ちているわけでもなかった。整備されたのだろうか、小さな泉に「鶴見川源泉」と、書かれた看板があった。背後には多摩市との境の稜線。町田市がその昔は相模の国(神奈川県)だったことを思えば、目にする稜線はさしずめ「相武国境尾根」と言えるのだろう。鶴見川はやはり相模の国で生まれてそのまま海に注ぐのだ。それが嬉しかった。

国境稜線までは短いがきつい登りだった。10%を越える坂道だろう。レーサーの友はダンシングで登る。自分はフロントインナーを落としてなんとか登りきった。レーサーにも関わらずフロントインナーは28枚齒のギアに換装している。自らの貧脚を考えギア比1対1を狙ったのだ。替わりにフロントの変速性能はあまり良くない。坂の途中には「中央新幹線非常口工事」と書かれた工事現場もあった。そうか、リニアモーターカーか。磁力で浮いて走る鉄道。夢の世界だと思っていたが本当に隔世の感がある。

稜線に上がって広い展望を得た。丹沢が午後の光を浴びて霞の中に立っていた。前衛の大山。そして奥に主脈。塔ノ岳、丹沢山、最高峰の蛭ケ岳。何度も歩いた稜線が懐かしい。決して楽させてくれないルートには気力体力の残るうちにまた行こうという思いがある。涼しい風が吹き、友と自分の汗ばんだ体を冷やしてくれた。

この尾根は「戦車道」と呼ばれているらしい。なんでも旧陸軍の戦車の走行練習のルートという。95式軽戦車か、97式中戦車辺りがここを走ったのかと思うとミリオタとしては感慨深い。今は全舗装で公園化されているが大きな起伏もなくたしかに走りやすい尾根道だった。鳥獣保護区サンクチュアリーの看板もある。稜線の東側は多摩ニュータウンがすぐそばに見える。

「このあたりで下りましょう」。友はそう提案してくれて自分はそれに従った。

町田街道を横切るともう橋本の街だった。橋本は懐かしい。18歳の頃は自動二輪の免許取得のためにこの街の教習所に通った。登山に熱中し丹沢の山々に通った頃はこの駅からバスに乗り山に入り、山からの下山バスの終点もここだった。甲州への家族旅行の帰りは当時は国道16号線に頼る以外はなく、渋滞の名所橋本五差路そばにあるチェーンの中華料理店にも帰路良く立ち寄った。

そんな懐かしい街の駅にはいつしか京王電車も来ており、いずれはリニアモーターカーも来るのだろう。渋滞の名所は立体化された。今日の行程の締めには家族と何度か立ち寄った懐かしの中華料理店で餃子とビール、とも思ったが、それはなにか切なかった。二人の娘たちは成人し、もう自分たち夫婦の下を離れた。そんな現実下で昔日を思い出して何になろう。自分は未来を生きなくてはいけない。懐かしい話は胸の中にそっとあるだけで充分だ。

駅のビルに同じ中華料理店のテナントがあった。そこで、前回と今回のサイクリング無事終了を祝った。たちどころに生ビールが二人で六杯、餃子二皿が消えて行った。

今回はルート選びもすべて友に頼ってしまった。友にとっては走り慣れたルートに、足手まといが引っついた形になったのだろう。しかし嫌な顔一つせずに、共にジョッキを重ねてくれる。ありがたい事、この上なかった。

全ての願いはかなった。友は京王線に、自分は横浜線に。それぞれ大きな輪行袋を担いだ。走行距離は30キロ程度だったが、これを「充実の日」と言わぬのなら、他にそんな日はないだろう。

(*)https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/07/19/224855

長津田駅から10分も走ると豊かな田んぼの中になった。

自然がそのまま残った豊かな谷戸に走り込んだ。時の流れもスローで、焦る必要もない自分たちもここで休憩を取った。全く横浜も懐が深い。

この小さな泉が鶴見川の源泉という。この背後の森が相武国境稜線。ここに降った雨がここに集まっている。長く親しんだ川の起源を見ることが出来た。

橋本駅輪行袋に自転車をくるんだ。ここまでの名ガイドをしていただいた友に感謝。

今回のルート図。アンドロイドアプリ「山旅ロガー」で取得したGPXファイルをカシミール3Dに展開したもの。

 

森の珈琲タイム

少し離れた場所に住む友人夫妻。所要で近所まで出かけた。出かける直前にその旨連絡したら今日はご不在ということ。しかし友人宅倉庫に預けているものを取りに行く必要があり立ち寄ったらドアノブに倉庫の鍵番号と共にメッセージがあった。

「今日は仕事先です」。

所要は2時間ほどで済んだ。せっかく種明かししてくれたのだから、お顔だけでも拝見しよう、と、妻とそう話して車を走らせた。

友人夫妻は隣町の手作りのベーコン屋さんをお手伝いしていた。工房の横の建屋がベーコン屋さんの家。そしてそこにはウッドデッキで寛ぐ3、4人の方々。友人を呼んでもらおうとしたら店の方がわざわざ工房まで足を運んで、呼んでくれた。

3、4人のはずがいつしかベーコン店ご夫妻に友人ご夫妻。そして我が家は2人と犬1匹。ウッドデッキのテーブルを囲んで、都合10人近くなってしまった。

卓上にはチーズフォンデュ鍋が乗っかり、楽しいランチタイムか茶話会のようだった。会話の腰を折らぬか心配だがそれも、杞憂だった。話は直ぐに再び回り始めた。

手作りのルバーブをジュースにして、冷たい炭酸水で割っていただいた。あれよと思うまにエスプレッソが出てきた。予期せぬ訪問者にも関わらず、歓迎して下さったのだった。お店の「うり」迄ご馳走になった。チップの薫りがよく効いた絶品だった。焼かずとも充分に美味しい。ベーコンとは燻製、改めて思う。

澄んだ空気の下、爽やかな風に吹かれ、山を眺めて森を見ながら笑い合う。手作りの時間を友と過ごすのは楽しいだろう。自分の友人夫妻を含め多くは喧騒の都会を離れこの地に縁を得たと言う人たちだ。

見知らぬ人達と知り合って、人の輪が広がっていくのだろう。小さな繋がりが少し大きな輪になる。十人単位ならばそれは小さなソサエティー。人は一人でも生きるが、何らかの社会に属するとそこに喜びを見い出すのではないか。小さなものでもいいし、いくつあってもいい。

長年の友人と、知り合ったばかりの方々との輪に期せずして加わって、心の中が少しばかり暖かい。それは淹れたての珈琲のせいばかりではないだろう。森の珈琲タイムはとても美味しい一杯と一皿だった。

チップの香りが漂う手作りベーコンを、美味しく頂いた。

駄犬君も会話に参加した。森を渡る風は彼にも心地よかったのだろう。