もう十年近く前だろうか。三菱重工が国産ジェット旅客機を作るという話題があった。大応援だった。ミツビシ・リージョナル・ジェット、略してMRJと名が付いていた。初飛行のニュースにはドキドキした。ミツビシがとうとう飛行機に乗り出したか!何十年振りなのだろうか?
長距離から中距離、小距離でも旅客機と言えばボーイングとエアバスの二強になるだろう。ロッキードは旅客機からは撤退してマグドネル・ダグラスはボーイングに吸収された。一方地方都市を結ぶ短距離路線、コミュータ路線ではより小型の旅客機が飛んでいる。カナダのボンバルイディアやブラジルのエンブラエルといったメーカーが出てくる。ミツビシの狙いはこの小型機の世界だった。確かに短距離コミュータはこれから需要がありそうに思えた。
「日本軍用機辞典陸軍編」という本を図書館で借りた。太平洋戦争終結までの旧日本陸軍の飛行機の写真入り解説本だった。複葉機の時代から載っていたが自分の興味はやはり低翼単葉機になる。自分が子供の頃、日本人の手による戦記物と言えば旧帝国海軍航空隊の酒井三郎による「大空のサムライ」しかなかった。ゼロ戦を操り太平洋上で欧米を相手に戦っていた。また、連合艦隊司令長官であり第37代内閣総理大臣だった米内光正に関しての小説を読んでだろうか、太平洋戦争は陸軍が主導したものという理解が根づいてしまった。米内光正然り山本五十六然り、海軍は最後まで開戦には反対だったと理解しているが誰もがもう転がりだした石を制止できない状態だったのかもしれない。そこはきちんと事実を知る必要があるだろう。が、海軍は合理的でスマート、裏を返すと陸軍は野暮で粗野、そんな価値観を持ってしまった。
そんなこともあり自分は子供のころから帝国海軍の飛行機に胸を躍らせていた。九十六式艦上戦闘機に始まりゼロ戦。そして局地戦闘機の紫電改と雷電。攻撃機爆撃機も沢山あった。陸軍機にはあまり関心がなかったが今改めて文献を見ると先進的な飛行機は陸軍に多かった。九十七式戦闘機に始まり一式「隼」、二式「鍾馗」、三式「飛燕」、四式「疾風」そして三式からエンジンを換装した五式まで。軽戦闘機、迎撃戦闘機、マルチユース。エンジンは空冷から水冷迄と様々な機体と技術だった。終戦までゼロ戦を主役として使い続けた海軍よりも進んでいたように思う。
ゼロ戦と雷電は三菱の飛行機だった。隼、鍾馗、疾風は中島の飛行機、飛燕は川崎の飛行機、紫電改は川西の飛行機。三菱は海軍機の納入が多かったが中島は陸軍機の納入が多い。他にも立川、日本国際航空、満州飛行機製作所といったメーカーがあったことをこの本で知った。日本はいわば航空機大国だったのだろう。そんななか三菱が国産ジェット旅客機をつくろうというものだから日本の栄光再びと胸は躍った。
中島?そんなメーカー知らないよ。川崎?それもしらないな。川西?聞いたことない・・・・。そう言わないでほしい。スバリストという言葉がある。スバルの車のファンだが、するとあなたは立派な中島飛行機のユーザーです。バイク乗りでカワサキが好きならあなたはあの水冷エンジンをつんだ三式戦闘機・飛燕を作っていた会社のバイクに魅了されているのです。自衛隊の飛行艇があまりに凄い性能で各国海軍から注目されているのを知っているでしょうか。作ったのは新明和工業ですが元は川西航空機ですよ。そう言いたくなる。三菱も中島も川崎も川西も残りのメーカーもすべて飛行機から一度手を引いたのだから。
友人から写真が送られてきた。出来上がった、とキャプションがあった。直ぐに分かった。トビウオの様なスマートな機体。陸軍機・四式戦闘機疾風のプラモデルだった。器用な彼なのでとても素晴らしい仕上がりだった。エアブラシを使わずに手塗りで作ったというのだから脱帽だった。スバル、いや中島らしいスマートで無駄のない飛行機だった。終戦後の米軍のテストではこの飛行機の性能が当時の日本軍の中では抜群で米軍機を越えていたというのだった。
自分の家は丁度航空路の下なのだろう。飛行機雲を見る。飛んでいるのはボーイングかエアバスか、と肩を落とす。三菱MRJは目下のところ再開発はないだろう。いつかまた日本の空を日本製の飛行機が飛ぶ日が来るとファンとしては楽しみにしている。
