山の斜面にある神社の境内だった。近所なのに普段歩く道から外れていることもあり、そこに足を踏み入れたのは初めてだったかもしれない。ヘッドフォンをして歩く朝のウォーキングはいつもと違うルートだった。
築60年、それ以上か。自分よりもずっと年上だろう社殿には紙垂(しで)で飾られたしめ縄が立派だった。神主さんが熱心な氏子さんとともに新しい年を迎えるにあたって交換したのだろうか。
神社は異質な空間だ。田園に赴けばあぜ道の果てに鎮守の森があり、そこには八幡様がいる。鳥居をくぐれば神酒などお供え物がある。自分が幼童だった昭和40年代は真新しい住宅地に周りを浸潤されつつある中で開発されずに済んだ緑があった。その中で神社が一人だけぽつんと残っていた。その境内は自分たちの格好の遊び場だった。
社殿の外には大きな木が何本も生えている。異空間を作り出しているのは、これか。
クスノキだった。樹齢何十年?いや百何十年? 30メートル以上も背を伸ばし、四方に枝を張っていた。その葉が幾重にも重なり見えないカーテンとなり、世間の汚れた空気を遠いものとしているのだろうか。
参道の左右に立派な狛犬が居るのだった。一匹は口を閉じ、会い方は口を開け牙を見せていた。阿吽は金剛力士ばかりではなかった。
「いや、社殿を汚す悪い奴ではないから、気にしないでね。」
そう言って、怒気に満ちた彼らの気に障らぬようにそっと彼らが座っている石の台にもたれかかって空を見た。呆れるほど背の高いクスノキが何層にも枝を張り緑色のフィルタになっていた。それが鮮やかに思えたのも一月らしい冬晴れの空がとても青かったからだろう。
しばらく空を見ていたらゆっくりと、気づかぬほどわずかに地面が揺れていた。いや、クスノキの葉が風に揺れるのだった。
一神教ではない多くの日本人の心の中で神社の占める地位とは何だろう。八百万に神が宿る。大地に水に、空気に、全てに。山が荒れて災害が来ぬように村人は神社に怒りを治めるよう祈った。そんな場所は神との対話の場所かもしれない。
万物のお陰で自分は生きている。俯瞰してみるならば自分は自然の中の一つに過ぎない。そんなことを思うようになったのは最近の話だ。実際風には匂いがあり、風景は彩に満ちていた。季節の移ろいが、四季の食べ物が。すべてがありがたい、と思えるようになったのも、生と死の狭間を過ごした病のお陰かもしれなかった。野に咲く花にこれっぽっちの関心もなかった。しかし今は知っている。季節に応じて確実に芽吹く彼らが自分に力をくれる事を。
八百万といいながらその神は実体が無く、心の中で皆が違う神を持っているのだろう。神との対話の場所で、今日は碧空と揺れる木々が自分に力をくれた。空と木にそれは宿っていた。
「もう少し、ここに居させてな」そう狛犬に断りを入れて空を見上げた。自然を冒涜しない限り彼ら二匹は大人しい。ヘッドフォンから流れてきたのはバッハの平均律下巻第12曲・BWV881だった。全ての不要なものをそぎ落とした少ない音が繋がり旋律となり、それが幾層にも有機的に絡まって高い空間を作っていく。それはまさに今、目の上で僅かに揺れているクスノキの葉と、全く同じだった。
自分は大きな流れの一点に過ぎない。もう少し待てば空気は更に柔らかくなり、春がやってくるだろう。自分はゆるやかな流れに乗ってそれを待つ。地球の自転も、フレアから放たれる太陽の強い力も、すべてがありがたい。明日からは二月だ。さぁ、梅を待ち、桜を望もう。
PS: 平均律下巻12曲BWV881(J.S.バッハ):スヴャトスラフ・リヒテルの名演がネット音源にある。この曲でのピアノ演奏はフリードリヒ・グルダとタチアナ・ニコラーエワと並んで他を寄せ付けないと思う。