日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

水芭蕉を見て

♪夏が来れば思い出す。遥かな尾瀬、遠い空♪

尾瀬にも行ったことがないのに、子供心に地名と共に記憶に残ったメロディ。透明でいてはかなさや寂しさすら感じさせるその歌は、清冽な水や緑色の風が吹いているであろう遥かな楽園への、夢の架け橋だった。

そんな歌に唄われた尾瀬に初めて行ったのはもう二十年は前の五月連休。大ザックを背負いテレマークスキーで下ったムジナ沢。尾瀬ケ原の一角迄降りて山の鼻でテントを張り、広い雪原の向こう、残照に至仏山が大きかったことは忘れられない。そこは確かに楽園だった。

歌に出てくる水芭蕉を初めて目にしたのは、しかし、尾瀬ではなかった。友と山スキーで出かけたみちのくの山だった。手を入れたなら切れてしまいそうなほど清冽な雪解け水が流れる、豊かで小さな田代。そこで初めて水芭蕉を見た。透明な水に緑の葉茎が映える。白色に変化した上部の茎はあたかも花弁のようだが花はその中にひっそりと小さくある。それは恥ずかしがり屋の花を白く大きなカラーが守っているようにも見えた。

こんな透明な水の中に生を受ける美しい花。しかし全ての茎が成長し白く広がりその中に花を宿すわけでもないと知った。凛とした水の中に、伸びきれずに流れに任せてたゆたう茎もあるのだ。

冷たくないのだろうか。とても手を入れることも出来そうにない水中だ。流れに任せるままの伸びきれない茎の横から、力強くすっと伸びきって水面を突き破り咲いている花を見ると、思うのだ。生を受ける事、言い換えれば、命を産む事は大変なのだろう、と。

鮭は命がけで生まれ故郷の川を遡上し、産卵して息絶える。カマキリの産卵は栄養補給のためにパートナーの雄を交尾中に食べる、そんなカタストロフィを持ってしても産卵後の冬には息絶える。水芭蕉とて流れに漂うままの茎は水に朽ちて来年には花を咲かすまい。生と死は表裏一体だ。

機会があったにもかかわらず自分は怖気づいて、二度の家内の出産には立ち会わなかった。娘たちは二人とも難産だったようで、ヤットコのような鉗子や掃除機のごとき吸引分娩機の出番があったという。産むほうも必死だし、生まれるほうもたまらない。

何かを生むことは命を持つものとしては生きがいだろう。産後の母親の、疲労の中に宿る充実の表情がそのすべてを物語る。

男性である自分は、何かを生むことはない。何も生み出せないのなら、生きがいは持てないのだろうか。自分の会社員時代の生きがいは何だったのだろう。何かを生んできたのか。会社への利益への僅かな貢献程度ならしたのかもしれない。いや、それは生計を立てるためのもので、自分の生きがいではなかった。子供達も巣立ち会社生活も終え、もはやなんら社会のエコシステムに貢献していない自分はこれからいかにすべきなのか。カマキリだったらご用済、もうこの世にはいないだろう。たゆたうだけの水芭蕉も寂しすぎる。

自分も何か生み出したい。そんな思いがある。高齢化社会を迎えた。自分の寿命が何歳までかなどわからないが、まだ時間はあるだろう。それを実りあるものにするには「生きがい」を持つこと。何かを生み出す、創造する事が必要だろう。

何を創れば良いのか。焼きもの? 料理? 無農薬野菜? 有形ばかりでもないだろう。無形ならば、テーマを見つけての旅? ボランティア活動? 答えはまだ見つからない。しかし一つ気負わずにできそうなことがありそうだ。日々の生活の中に新しいことや喜びを見出し、感謝する事。それを創造という形にするのなら、感じたことを何らかの表現手段を使い可視化して残していけばいいのではないか。

幸か不幸か自分は病を患った。病院生活の日常の中は生と死がとなり合わせだった。そんな生活を経たからこそ感受性が高まったのではないか。気づかぬところに思わぬものがある。見えなかったこと、気づかなかった事が、今は見えたり感じたり出来るようになった。そして色々な人と、見知らぬ人と気軽にお話をしたいという気持ちが増えた。皆さん、それまでの人生がある。それを聴きたい。彼らの生きてきた証は、自分に何らかのヒントをくれる。

好奇心を忘れることなく、思索にせよ行動にせよ小さく物事を始めてみるか。トライし、エラーし、考えてみるか。これまでもそうしてきた。これからはひとつもっと気負わずにやっていこう。日々の中には小さな喜びがあふれている。そんな自分が発見したこと、感じたこと、体験したことを心象風景として落とし込んで、表現してみよう。手段はいくつもあるだろう。

自分なりに「創造」が見えてきたように思う。「創造」は生きがい、生きることの証。色々な手段で新しい命をゆっくりと世に出していければよいのだろう。そうすれば、来年になり水芭蕉にまた会った時に、感性と観察眼は冴え渡り新たな美しさに気付くのではないか。

どんな小さなことでも喜びを感じ、その気持ちを残すべく自分が創造し続ける限り、水芭蕉は常に美しい姿を見せてくれることだろう。

湿原に咲く水芭蕉は、生きる事とは何かを考えさせてくれる。リュウキンカも今を盛りのように美しかった。