日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

アイコンタクト

目は口ほどに物を言う。目を見て人と話す。目力がある。目が座っている。目が輝く。目が泳ぐ、腐った魚のような目をしている…。

さよう、目とは人間の感情を表現するのに一番大切で正直なのだろう。言葉という最強手段を発するツールである口よりも、表現力がある。「君が好きだ」と言っても目が泳いでいたら、誰もそれを愛の告白とは信じない。座ったり、輝いたり、泳いだり、腐ったり、となかなか目も忙しい。顔の中心は鼻だろうがその上にご丁寧に二つあるのが目だ。口も鼻も一つづつだがなぜかしら目と耳だけ二つある。動物として生きるための五感を研ぎ澄ます、そのためには視力・聴力の強化が必要だったのだろうか。おかげで我が家の駄犬ですら、どんぐりまなこで喜怒哀楽を伝えてくる。いずれにせよ目を通じて他人様の心と向き合っているというのは事実のようだ。

ではアイコンタクトが物を言うシーンとはなんだろう。ラーメン屋など典型か。支那ソバなら茹で方と具を乗せる方、味噌ラーメンやタンメンなら茹で方と炒め方。ともにアイコンタクト、「あうん」で動けないとお客様には申し訳ない一杯となってしまう。

「あうん」の究極形は夫婦間の意思疎通だろうか。しかし個々にもよるだろう。すべてが目で通じれば楽だが、我が家では残念ながらそうはいかない。何せ自分のメッセージは大抵の場合家内によって「黙殺」の憂き目に合う。「あうんの呼吸で瞬時に全否定される」という訳だ。

自分も一応はバンドマンの端くれ。下手くそながらのベース弾き。そう、バンドはアイコンタクトが物を言う。曲中の「キメ」、終わりの「シメ」。フロントマンとドラマーとのアイコンタクトは欠かせない。右利きの僕はドラムセットの下手に立たないと怖くて仕方ない。自分がドラマーとアイコンタクトが一番しやすい場所がそこなのだ。尤もそれだからいつまでもB級、いやC級ベーシストなのだろう。達人の域に達すれば呼吸でわかり合えそうだ。

先日見た演奏会では、まさにそんな「達人の意思疎通」に溢れていた。

ソリストは、我が憧れ、マルタ・アルゲリッチ。オーケストラは水戸室内管弦楽団。演目は彼女の自家薬籠中のシューマン・ピアノ協奏曲。久恋の奏者、魅力の曲。

オケのメンバーが揃い、オーボエが柔らかにAを奏でるとコンサートマスターに続いてAの全奏。ここが観客として一番ワクワクする時だ。さて音合わせも済んだ。扉が開き会場がどよめくほどの拍手の中アルゲリッチが入場する。軽く挨拶をしてさっとピアノの前に座る。あれ、指揮者の入場は?と思う間もなく、一瞬にしてオケと彼女の強烈な打鍵で曲が始まった。それは名人のメスのようにその一撃で聴衆のざわめきを瞬時に停止させるほどの鋭さだった。コンマスと一瞬目を合わせただけだった。

呆気にとられた。指揮者をたてないピアノ協奏曲ならばソリストが指揮をする。「弾き振り」というやつだ。しかし指揮者の居ない事は想像していなかった。

ステージの背面の座席だったので、アルゲリッチの豊かな表情と一挙手一投足が目の前だった。コンマスとの間は1メートルも離れていないのか、時折彼女はコンマスを一目見る。彼も即座に呼応する。必要に応じて両者は上半身を近づけあう。息遣い、体の細かな動き。言葉無くとも、目線を交わさなくとも、お互いがそれを感じ取り音楽を進めていく。

凡人ではなく達人同士だから成立するのであろう最低限のアイコンタクト。それは「達人の意思疎通」の技そのもの。そこから紡ぎ出される煌びやかでロマンが横溢する旋律にはただ魅了されるだけだった。

さて、日々を過ごす家庭にて。達人でもなく「アイコンタクト」の目力も十分ではなさそうな自分だ。やはり、目ではなく「言葉」で会話をするのがどうやらお互いに幸せそうだ。

歳をとって活舌は日に日に悪くなっている。そのうち言っている事も理解不能になるかもしれぬ。ああ、家内よ、許し給え。

水戸室内管弦楽団109回目公演は、マルタ・アルゲリッチを迎えシューマンのピアノ協奏曲を演奏した。休憩時間中にピアノが運び込まれる。高まる興奮のひと時。

PS:

シューマンのピアノ協奏曲の動画サイト。過去のブログ記事https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/03/29/004358

・同曲動画リンク。ピアノ、マルタ・アルゲリッチアントニオ・パッパーノ指揮、聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団 https://www.youtube.com/watch?v=zsnPzcc1Zb0

 

一人ぼっちの校庭にて 

♪春なのにコスモスみたい♪

そんな古いコマーシャルソングが頭の中にずっと残っている。歌詞の進展はなくただそのフレーズが僅かに異なる音符や転調によって続き、そこに商品宣伝のナレーションが入ったと記憶する。すこしシャンソンのような趣のあるメロディは子供心にもおしゃれで、甘酸っぱいものを感じさせた。今思うとそれは資生堂のコマーシャルだった。山口百恵さだまさしの「秋桜」を歌うよりも昔の話だ。

コスモスは秋の花。しかし今は春。明るい春に、少し秋のようなシックな化粧をしませんか?そんな意図の宣伝だったのだろうか。「言葉遊び」ではないが相反する2つの言葉を並べる事の妙を、幼心にも感じたのだと思う。

コスモスの咲く秋は素敵な季節だ。9月も半ばを超えると夏の残滓は波が去るように消えていく。天空はますます高くなり少し尖りかけた風も肌には心地よい。そんな風に金色になびく稲穂が心の中に虫の声とともに温かいものをくれる。ひと月も経てば紅葉の名の下に赤や黄に化粧する木々が美しい。秋と言っても表情は豊かだ。

しかし注意しなくてはいけない。何故か食べ物も美味しくなる。「天高く腹太るる秋」になってしまう。肥えるのは馬ばかりではないのだ。

そして何よりも「夕暮れ」が素晴らしい。心の中に、こんな風景が残ってはいないだろうか?

校庭で遊びに夢中になっている小学生。砂場、缶蹴り、追いかけっこ、三角ベース。他愛もない遊びは時間の経過を忘れさせる。冷たくなった空気に一人また一人と仲間は家に帰ってゆく。熱中しすぎた!

気づくと空は赤く焼けて、その上は早くも墨色に染まっていく。遊具の影が校庭に長い。あ、誰もいない!

そんなとき、大きな不安に包まれて、それを追い払うように駆け出すのだ。怖くて少しは涙もでる。

その時に見た空の美しさ。齢60を迎える自分でも、今あの色を形容する言葉を持っていない。

なぜならそれは混色なのだから、と思う。単なる空の色彩に加え、濁った大人にはない子供だからこそ持ち得た心の中の色が混じっているのだろう。確かに寂しさを初めて感じたのは、間違えなく秋だった。

そんな秋の夕暮れ。年月という数えきれない腹太るる秋を経た今なら、僕はその気になれば心の風景にいつでも秋を呼べる事を知った。

音楽だ。ブラームスを聴けば直ぐに秋の寂しさが自分を取り巻く。彼の音楽には憂愁がある。劇的な感情の爆発も、柔らかな明るさも、ゴシック建築のような堅牢さもある。しかし自分が惹かれるのは常に根底にある、秋の夕暮れを感じさせる「優しい寂しさ」だった。

特に室内楽や器楽曲にはそんな細かい感情が聞き取れる。それが好きだ。有名すぎる弦楽六重奏曲1番、クラリネット五重奏曲、ピアノ五重奏曲。器楽だと間奏曲第2番作品118。挙げだしたらきりがない。木管は空気に溶けるようにやさしく、ピアノは空気に磨かれたようにまろやかに鳴る。なんという憂いと優しさだろう。

オーケストラ物も負けていない。4曲の交響曲の、2曲のピアノ協奏曲、バイオリン協奏曲でも、緩徐楽章の切なさと甘さは表現のしようもない。終楽章の爆発は苦悩に打ち勝った青年ブラームスそのものか、年老いたブラームスの人生観の表出なのか。ハイドンの主題による変奏曲で聴かせる穏やかさ、運命の歌やドイツレクイエムなどの合唱曲で聴かせるフーガのドラマチックな世界。様々な風景がある。

水戸室内管弦楽団の第109回定期演奏会ラデク・バボラーク指揮)を水戸・水戸芸術館に聴きに行った。目当ての一つ、ブラームスの演目は、セレナード第2番。今回の小編成のオケの配置は通常はバイオリンやヴィオラが占める下手に木管が座り、弦楽器は上手に座っていた。管がリードを取る音楽なのだ。恥ずかしながらこのような配置で演奏される曲だとは、いやそんな配置があるとも知らなかった。曲をリードする柔らかなフルート、クラリネットオーボエ、そしてファゴットの音色が心に染み入る。弦はヴィオラ、チェロ、コントラバスが曲の支えに徹する。ティンパニーがないのにパーカッシブな生き生きとしたリズムが生み出されるのは、弦部隊が弓で弦をたたいているからだ。ピチカートとは違う。

冒頭からユニゾンで入ってくるまろやかな管の音色に、たちまちやられた。指揮者のパボラーク氏の、踏み込む足のステップ音や吸う息、吐く息が聞える。棒の動きにオーケストラは柔らかく、強く反応する。繊細な音楽でもあり、生きた熱い音楽でもある。

瞬く間もなく僕は、独り校庭に置いて行かれてしまった。昔日の秋の夕暮れが淡く包み込み、そして煮え切らずに何かくすぶっていた青春の苦悩が浮かび上がる。

先日40年ぶりに読み返したフランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き」を不意に思い出した。シモンがポールに問うたという「ブラームスはお好きですか?」という台詞。いったいどの曲をサガンはイメージしたのだろう。

そんな小説の中にも表れ、自分の個人的な心のひだを見事に音で紡いだブラームスは時代を問わずに素晴らしいと思う。

コンサートホールの外に出ると涼やかな初夏の夕べの風はすこしばかり冷たい。夏浅き日に感じた秋空の色と憂愁な音。それは懐かしいコマーシャルソング、「春なのにコスモスみたい」のようだ。「全く、素晴らしい日だった」。一人ぼっちの校庭を肩をすぼめて歩きながら、音楽の余韻に酔う。

フランソワーズ・サガンの小説。題名に惹かれたのか、人気があったからか、ブラームスに傾倒する頃に読んだ記憶がある。今回の水戸室内管弦楽団演奏会プログラム冊子は読みごたえがあった。

PS: 動画サイトより

ブラームスセレナード第2番:レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィル 
https://www.youtube.com/watch?v=WxfNdCOH9jg

・CMソングの正体はこれ。1973年のCMという。歌っているのは天地真理だろうか?
https://www.youtube.com/watch?v=Bw1XXlaSd24

山で迷わず・里で迷う 加波山(709m、石岡市)

茨城県の山は数えるほどしか登っていない。筑波山八溝山、雨巻山、吾国山、そんなものか。遠征した奥久慈男体山は登山口で悪天で取りやめた。決して遠くはないのだが他に興味のある山が多く、ずっとお鉢が回ってこなかったのだろう。

学生時代から好きなピアニストをソリストに迎えた室内管弦楽団の演奏会が水戸で開催される。プログラムも好みの極みだったので速攻で予約した。彼女の生演奏に触れるのはこれを逃すと自分にはもうチャンスもないのではないか、と、ようやく取れたチケットは嬉しく期待と興奮が大きかった。

演奏会は夜からなので、せっかくなので、「ついで」に山に登ろうと考える。往復は常磐線を利用する。何処か行けるところはないかと地形図をじっくりみると、加波山があった。何故かまだ登っていなかった。東北本線から筑波山の並びで北側に見える山。興味はあったがなかなか縁がなかった。

アプローチは良くないが、常磐線羽鳥駅からバスで山麓まで行くルートがWEBで見つかった。歩行の大半は林道と言う。面白味はないが「ついで」の山だ。さすがに下山後にコンサートホールに登山靴で行くような野暮はしたくない。ローカットのトレッキングシューズを選びザックもデイパックにした。

9:40、恋瀬小学校入口。羽鳥駅から30分ほどの小型バスに揺られたそこが目的停留所。バスは最後まで乗客は自分一人だった。

西に見上げる稜線が加波山なのだが、全く期待しないことに、稜線には大型の風力発電機が一基。そして建設中がもう一基。地球温暖化による化石燃料からの脱却、技術の進化…。自然景観の保護は後回しかもしれない。残念だが妥協も必要ということなのだろうか。

バス道から集落までは長閑な道だ。林道のとりつきまでは水田の中の道を行く。ちょうど田んぼへの水門を開いたばかりで緑の苗が気持ちよさそうに水の中から顔を出している。林道をゆっくり上り始める。やたらと目の前に羽虫が煩い。荒れ気味の林道だが車のわだちはしっかりついている。林道なので距離は長いわりに高度はなかなか上がらない。

11:30、一本杉峠に着いた。疲れで頭はふらふらし、体も悲鳴を上げている。もう病前の体力やバランス感覚を取り戻すことは諦めている。2時間に満たない上り坂でこの体たらく。この体を自分のものと認め、つきあうしかない。

風力発電機のたもとを通り、加波山への山道に入った。カキツバタが涼しそうに咲く足元の沢が動いている。目を凝らすと動いているのは沢水ではなくその中のおたまじゃくしだった。これが全部蛙にかえったらいったい何百匹になるのだろう。

急な階段を上り緩い尾根を行くとブナの混じる林となり、神社があった、そこが加波山の山頂だった。

アマチュア無線運用をしたいところだが、演奏会に遅れるのは避けなくてはいけない。重要度が違っていた。病を経て全てにおいて緩慢になった自分としては、少ないバス便へは余裕をもって到着したい。

往路を駆けるように戻る。林道は淡々と降りるが、里へのショートカット道を選んで失敗した。作業道に近く、荒れており蜘蛛の巣が不愉快だった。

ホウホウの態で里に出て、往路でうろ覚えの道を、あの方向だろう、と決めて急ぎ歩く。バスまであと1時間以上あるから焦る必要もないが、普段あまり山では履かない靴を履いているせいか、足指にマメが出来て、歩くのが苦痛になった。

15:05,ようやく出たバス道だがそこには往路のバス停はなかった。「十日橋」と書かれた停留所がぽつん。バス路線は正しいが、はて、なぜ間違ったのだろう。バスの時間を焦るあまりか。履き馴れない靴で歩いた苦痛のせいか。手元のスマホにもGPSナビソフトは入っているがそれを確認するのも面倒なほど、疲れていたのだった。

山で迷わず、里で迷う。ありがちな話だが「岳人」としては情けない。もっとも、こんな体力と舐めた姿勢の自分は「岳人」を自負する資格もない。せめて「ついで」にしなければもう少し今日の山も楽しかったかもしれない。多くの課題が明らかになり、当たり前の教訓が頭に浮かぶ。加波山には、悪いことをした。お詫びに帽子を取ってお山に挨拶だ。今度は真摯に伺います。

さて、今宵はどんな素敵な演奏会になる事か。帽子をかぶり直した自分の頭の中は、早くも音符で満ち溢れる。静けさを突き破るピアノの透徹した響き、レコードで35年以上聞き憧れた音が届く。早くコンサートホールへ。リカバリーだけは、早いのだ。

2022年5月19日歩く。

水田の中の路、正面に加波山の稜線を見る

水門を開き、清冽な水が水田に放たれる。稲は嬉しそうだ。

稜線近くの沢には涼しげなカキツバタ

入山バス停と下山バス停が違ってしまった。反省多き山行だった。

 

じっと我慢の子であった

犬を散歩に連れ出そう。目的は運動と排泄だ。しつけが悪かったのかたまたまだったのか、我が家の駄犬は外に出さないと排泄をしない。外に出されるまでは「じっと我慢の子」なのだ。しかしそこは生理現象。どうしようもない時もある。その時彼は「吠える」。夜半寝ぼけ眼で玄関の三和土に出して扉を開けるとすぐに外に出て排尿をする。「気づかずにすまなかった」と謝ることになる。

数度は失敗もした。雷が鳴ると怖がる。人間には聞こえない音域を拾えるのだろう。雷が来る前から毛は逆立ち、必要以上にうろたえる。あまりの不安さを察したので玄関の三和土に出すと、彼はそこで「すまなさそうに」すぐに排尿した。怖くて仕方がなかったのだろう。「決して君のおへそを取りに来たわけではないよ。天空の電荷が高くなりすぎただけの自然現象だよ」と言っても通じるわけでもない。僕も家内もそんな時は、生理現象を終えさせたら、唯抱きしめる事しかできないのだ。

雷は、怖いよね!

先日旅行に出かけた。必要があり宿泊したホテルに彼を半日ほど預けた。粗相があったら困ると、オムツ、いや、マナーパンツを履かせた。高齢犬と言われる年齢になってしまったのだ。彼はひどく情けなさそうな顔をしたが、許してくれと話しかけた。所用が終わり迎えに行くとはちきれんばかりにしっぽを振り、マナーパンツは半ばズレ落ちていた。

まぁ、よかった。何事もなかった。「漏らす訳、ないだろう」と自慢げだ。

今朝の散歩はいつもの慣れたルート。個々の犬にはそれぞれ好きな場所があるようだ。電信柱などどれも同じに見えるが、きちんと見分けて用を足す。全く犬の嗅覚は素晴らしい。

彼にはたくさんの友達がいる。名前も顔も犬種も覚えていなくても、嗅覚が全てを判断しているようだった。自分よりもずっと大きな犬も、活発な犬もいる。平和主義のようで、おおむね誰とでもうまく交流する。

今朝は同族さん、同じ犬種二頭とはちあわせ。二頭はメス犬。彼は去勢しているので男性的な魅力はないのか、いつもは雌犬には「しかと」されるのだ。しかし今日は二頭さんとリードが絡むほど嬉しそうに交流した。鼻がぺちゃんこな犬三匹が互いにつつきあう姿は、飼い主としては微笑ましく嬉しいとしか言えない。

「良かったな。あなたにも魅力が、あるな!」

交流を済ませるとそそくさと「お気に入り」の電柱で用を足して再び軽やかに歩きだす。こちらは排泄痕に水をかけ、「落とし物」は紙に取る。まったくいつもながらこの時間まで「じっと我慢の子」だったのだ。

さて僕が歳を取るのと同様に彼も歳を取る。僕が夜半に就寝から目覚める最大の理由は「トイレ」だ。加齢には逆らえない。彼とて同様だろう。これから先、そんな「老い」にどのようにつきあっていくのか。人間の勝手で「マナーパンツ」か? また情けなさそうな顔を見るのだろうか? 彼には今朝のような、同族と戯れる無邪気な顔が似合うように思う。しかし、それも、仕方のない話だ。もうこれからは「我慢の子でなくていいよ、僕らが察知するからね」と話しかける。

さて「どんぐりまなこ」の彼に話は通じただろうか。先はまだ長いね。ゆっくりやっていこう。

ぺちゃんこの鼻。菊の花のような鼻周りの毛。そしてどんぐりまなこ。シーズーの魅力は愛好家にはとても深い。

 

常磐線にて

会社員として一番楽しかった時期は欧州に駐在していた40代半ばだろうか。それまでも海外営業の仕事をしてきたとはいえ、生活の拠点を移し現地人と膝を交えて仕事をするのは刺激的でやりがいもあった。異文化と「がっぷり四つに組む」必要があり、楽しかった。

帰国して海外と国内の営業をともに担当した。自分は国内営業の経験は皆無に等しかった。相手を知り提案し受注する。そんな行為の本質は洋の東西を問わずと思ったが、色々しきたりがあった。お膳立に始まり接待なども気を使った。合理的な世界に慣れていたので躊躇うこともあった。また役職上深い事前検討や厳しい交渉もあった。

すべてに腰を据える必要があった業務を通じ、いろいろなことを学んだのだと思う。

所要があり常磐線に乗った。もう僕はスーツは着ていない。肩が凝る重たい鞄もなく、磨いた革靴も履いていない。ザックにトレッキング靴といういでたちだった。

平日朝の常磐線。流石に水戸あたりから都内に出勤する人はいないのだろう。通学の高校生と僅かな務め人が乗っている程度で空いた車内だった。

昨日の山歩きと昨夜の演奏会の興奮での疲れが電車の揺れに重なりあい、何時しか眠っていた。と、ある駅名で我に返る。その駅にはお客様がいて何度も通ったのだ。大概は商談は上手くいかずに、苦々しい思いで電車を待った、そんな駅だった。

思い出に彩られた駅を何事もなく電車は出発した。

数年前なのに、ひどく遠い昔のようにも思う。

今自分が「がっぷり4つに組んて腰を据える」事はあるのだろうか。そもそもそんな必要はあるのか。病を経て思ったことは、自然には逆らえないこと。自分もその一部に過ぎないこと。ガツガツする必要もない事。そして抗うより丸くありたいということ。

甲高いモーター音に、再びいつしか眠る。田園の広がる車窓風景も忙しくなってきた。記憶の中の風景は不意に鮮明に目の前に現れたかと思えば、通り過ぎてしまった。それは再び、時間という「巻物」の中に巻き込まれていくのだろう。

常磐線は長い距離を走る。まだまだやりたいことが待っている。家内にも「ただいま」を言いたい。

早く家に帰るのだ。

一生懸命だった日々も、時間という巻物の中に巻かれていた。わずかの時間でも、遠い昔の様に思えるのだった。

 

鉄分の暴走、迷走、妄想

テレビのワイドショー番組。東急東横線で珍しい列車が運行されるという事で踏切周辺に鉄道ファンが押し寄せ、ある者は遮断機によじ登り写真を撮影しようと試み列車の運行を止めたというニュースを流していました。東急電鉄の車両ではなく東京メトロの車両が運行されていたから、というのが理由でした。元住吉駅の近く、自分も良く知っている踏切です。

遮断機によじ登るのは行き過ぎ、暴走としても、「鉄分」が濃い自分はその気持ちがよくわかります。

東横線はかつては東京メトロ(当時は帝都高速度交通営団日比谷線が中目黒でつながっており、日比谷線車両は長く日吉駅まで直通運転していたのです。どちらも似たようなステンレス製の車両でしたが営団3000系が東横線を走っているというだけで、興奮モノ、失神寸前でした。

東横線が渋谷のターミナル駅を取りやめ副都心線とつながったことで、また、横浜駅も地下化され中華街まで線が伸びたことで、東横線には本来の東急に加え、西武、東武東京メトロ横浜高速鉄道の車両が走ることになりました。余りの興奮に血圧が上がり大変なことになりそうですが、幸いなことに最近の車両の無個性化に伴い、失神も、血圧異常も起きていません。今の車両はほぼプラットフォームは共通ですから塗装だけが違う車両に見える、それが残念です。やはり往年の名選手、東急なら8000系、西武なら旧2000系、東武なら旧8000系(クリーム色の旧塗装)、このあたりが行きかうのであれば血圧は限りなく上昇し、救急車に運ばれそうです。

鉄道を巡る私の「暴走」、幾つもあります。酷かったのは家族旅行で訪れたミュンヘン中央駅でしょうか。横にいくつものホームが並ぶ巨大なターミナル駅です。かなり離れたホームに、憧れの103系機関車が入線していたのです。私は家族に一言、動かないでね、と言い放ち広い構内を猛ダッシュ。我を忘れて写真を撮りまくりました。ソーセージ立ち食いスタンドの横にぽつんと置き去りにされた家族には悪い事をしたのです。

つい先日も「暴走」しました。場所はテレビのワイドショーで話題になった東横線の元住吉。なにせここには大きな車庫があるのです。かつてはここで新旧東急の車両がずらりと並び、それは楽しい場所でした。今は東急の旧式車両は地方私鉄に再就職。かわりに最新の車両と、乗り入れている他社の車両が見られます。無個性化した車両には興味がないのでいつもはスルー。しかしなんとそこに、相鉄マリンブルーが! 反射的に車を脇に寄せて急停止。車内の家内はあんぐりと口を開けたまま。後方確認不十分のまま往来を渡りました。反対車線のクラクションに足がとまりました。

小学高の6年間は相鉄沿線で育ったので、自分の相鉄線への思い入れは大きいのです。相鉄線のJR乗り入れに合わせてデビューした車両は従来の相鉄にはない、横浜の海を想起させる濃紺のマリンブルーに塗装されているのです。すでにJRへは乗り入れているものの東横線相鉄線の連絡線の開通はまだ数年先です。となると何故相鉄車両が東横線にいるのか?どんな経路でこの車庫に入線したのか?。

頭の中に各社の路線図が頭に浮かびます。連絡線が未開通とした今、相鉄車両がいかにして元住吉に来たのか? 海老名から小田急に入線し、代々木上原から千代田線に入る。千代田線からなんらかの連絡ルートで日比谷線に入り、東横線に来たのか・・いや、日比谷線には車両限界があり20m級の車両は入線できないはずだ。考えは迷走し、そしてきっとどこかに秘密のトンネルでもあるのではないか、と妄想に至ります。

暴走・迷走・妄想を持ってしてもメビウスの輪が解けません。生まれてこの方半世紀以上に渡り自分を縛ってきた鉄分の呪縛からはそろそろ解かれたい気分です。でもそれが無いときっと寂しい事でしょう。反射神経も衰えた今、暴走だけは止めたいところです。

東横線車両基地に相鉄マリンブルーが!わが目を疑い、頭は暴走・迷走・妄想。目が回る。(於、元住吉車両基地

TEE塗装の往年の名機関車、DB103系。玉子型の憧れの君を見て暴走してしまった。(於、ミュンヘン中央駅)

 

脳の不思議・・食べ物と幸せな記憶

人間だれしも、好きな食べ物は何?お勧めの店は何処? と聞かれると、まぁ5分くらいは話が出来るのではないだろうか?自分もご多分に漏れない。しかし好きな食べ物としてお寿司や懐石料理、フレンチやイタリアンがすぐには出てこないところが情けない。まずはラーメン。そしてフライや自家製ドミグラスソースのかかったハンバーグなどの盛り合わせ定食、オヤジさんが中華鍋をカランコロンとならして出てくる肉野菜炒め定食、駅のホームで小母さんが手際よく作る立ち食いソバ。どれも1000円札一枚でお釣りの出る料理。そんな「B級グルメ」しか出てこない。なにせこれらは美味しいし、それより高価な料理店には自分はあまり縁がないのだから、仕方ない。

脳外科での腫瘍摘出手術を終えてまだ集中治療室に居た時なのか、あるいは脳外科一般病棟に移ってからの話なのか。その辺りは忘れてしまった。

病床で、ひどくうなされた。まだ手術後から日は浅い。手術痕は痛くせん妄も残る。ベッドの上では日々の境界線も自分の中にはなく、ひどく長い夢と濃淡織り交ぜる霧の中を彷徨うような時間がいたずらに流れるだけ。いや時間という概念もなく、ただ時折目が覚め、再び波がひくように意識が向こうに遠ざかる。それが一日の出来事なのかあるいは二日、三日の出来事なのかも判然としない。

しかしそのうなされた時は、思わず目が覚めた。汗もかいていた。寝汗ではなく、脂汗でもない。運動などできる訳もない。他にどんな汗があるのだろう。あった。辛い物を食べると出る汗。その時の汗は間違えなく「それ」だった。寝汗なら寝具が濡れる。脂汗はねっとりとする。しかし、その汗は、頭の頂上から粒の様ににじみ出て、左右の耳に流れていた。

明らかに夢を見ていたのだった。それは今でもシーンを思い出すことが出来る、妙に現実味のある夢だった。

僕の前にはカレーがある。それもカレールーで作る家庭料理のカレーではない。オムレツ型に盛られた白いご飯の横にさらりと或いはどろりと横たわる洋食屋のカレーでもない。といってインド料理店のものでもない。それは少しだけ甘い香りが漂う緑色。タイ料理のグリーンカレーだった。

夢の中で僕はそれを食べようとしている。すると、米粒が突如動き出す。無秩序な動きではなく法則性があり、それに則って自分に向かってくる。米粒は皿を跳躍すると隊列を組みどんどん親指大まで大きくなり、いつのまにか編み笠を被った緑色の戦闘服となる。その背中には火炎放射器さながらのタンクがあり、そのノズルを僕に向けている。そこから出てくるのは「唐辛子パウダー」だった。僕は頭の上からそれを浴びる。終戦直後の日本人が進駐軍DDT粉を噴霧される、そんな写真でしか知らない風景に近いものだと思われた。

たちどころに自分は降伏し、その証として頭のてっぺんや額など頭部のありうる毛穴が全開し、つぶての汗が出てくるのだった。

コメが人になるなど荒唐無稽の極みだが、とにかく皿から飛び出た彼らは普段は一般農民、しかしいざとなると銃を取る。そんなベトコンのようなイメージだった。「♪やっとこやっとこ繰り出したぁ。玩具のマーチがラッタッタ♪」そんな歌に出る玩具の兵隊さんではなかった。なにせ真っ赤な粉末をまき散らして迫ってくるのだから。

起き上がったらもう部屋も自然光で明るかった。居合わせた看護師さんに「グリーンカレーに襲われる夢を見ました。とにかく退院して食べに行かなくてはいけない!」と断言。看護師さんは、脳外科病棟にはよくある話なのか、笑って「美味しそうですね」と言ってくれた。

ありがたい事に自分にはそのカレーが、どの店のどんな料理だったのかが明白にわかるのだった。もう早期退職してしまった会社のビルに入っているタイ料理店のテナントだった。その店にかかわる思い出は以前このブログにも記した。* 

その記載通り、自分はそのビルに勤務していた頃はまさに適応障害というメンタルの病で苦しい思いをしていた。そんなある日のランチタイムに当時高校生だった娘が来てくれて、ともにお昼を食べた。ビルの中、酸欠の金魚の様な辛い日々の中にふと現れた娘はとても嬉しい存在で、彼女と食べたグリーンカレーはまさに幸福な味だった。この店の壁にキャラクターとして描かれているのが、まさに夢に出た兵隊そっくりの、編み笠を被った農民のイラストだったと記憶している。それが脳裏にあったのだろうか。

発汗を伴うという現実味を帯びた夢の中に突如出現したグリーンカレー。食べることが好きだからなのか、その幸せのカレーの思い出が強すぎたのか、そのどちらともつかない。しかし脳は、やはり、とてつもなく予想外の働きをして、可能性を示し力をくれる。「グリーンカレーを再び食べる」。そんな想いが、病を強く一蹴したのではないか。

先に脳外科手術から目が覚めた時、頭の中に40年ぶりに聞く力強い音楽が鳴り響き、それが自分をこちらの世界に引き寄せてくれた、そんな不思議な体験をブログに書いた。**  そして今度は食べ物が、幸せな記憶が、さらにその手助けをしてくれた。

脳にはまだ、自分の知らない沢山の可能性があるのではないか。赤い粉末を噴射する兵隊。自分の体にありながらも制御はできない脳の力に、僕はただただ驚嘆する。自分の中の感動や幸せな思い出が多ければ多い程、脳の可能性は広がるのだろう。ありがたい事に決して悪い方向に物事を進めてはくれない。それが今までの経験でわかっている。

ならば僕は、好きな食べ物とお勧めの店について5分ならず10分でも15分でも話しをすることだろう。

* https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/04/23/131634 

** https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/04/24/171415

皿を離れた米粒が兵士になり唐辛子パウダーをかける。ありえない話だ。しかしそれは脳の仕業。自分のまだまだ知らない不思議が満ち溢れる。