日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ユーミンの歌世界を自転車で・観音崎と浦賀渡船 

ユーミン荒井由実および1986年までの松任谷由実)の音楽世界がとても好きなのです。そして当時の彼女の歌に出てくるシーンを訪問したいという想いがあります。できればそのすべてを自分の自転車の軌跡でつなぎたいのです。

これまで、八王子・府中・立川・国立、湘南海岸、そして横浜・山手エリアの彼女の歌のゆかりの地はほぼ自転車で訪問し、その軌跡はすべて自宅から繋がっています。つまり自宅で自分が両手両足を広げて寝ているとその手足の先から憧れのユーミンの歌世界が物理的に繋がっている訳です。1986年までのユーミンが好きで、サイクリングが好き。両立した楽しみです。

さて横須賀が残っていました。観音崎です。もちろん歌は「よそ行き顔で」(ex「時の無いホテル」)

大学生の頃アパートの隣の仲間が一足早く運転免許を取り友人の車を借りて最初に行ったのが観音崎でした。むろん自分のユーミン好きから行先はそこに決まったのです。観音崎の後は三浦市まで走り逗子から戻った。そんなルートでした。どういう訳かそれは深夜で、三浦半島の先端で車が限りなくガス欠になり不安だったことを覚えています。漆黒の闇の中をたまたま歩いていたオジサンに聞いたら「ここは毘沙門と言う場所。このあたりにはスタンドは当分ないね」と言われたのです。どうやって神奈川県中央部のアパートまで戻ったのかは記憶にないのです。

サイクリングルートの設定にあたりもう一つ大切なポイントがありました。浦賀港の渡し舟に乗りたいというものです。わずか3分の船旅で車道で行けば浦賀港を回り込み対岸と通じているので特に必要な渡し舟にも思えませんが、なぜか横須賀市営で運行しているのです。サイクリストにとって自転車のまま乗り込める船は異次元の楽しみです。

そんな興味の両スポットをカバーします。

* * *

国道16号線の追浜あたりまで車で走ります。GW最中は三浦半島にすら向かう車で高速道路は長い渋滞。全く呆れます。もっとも自分はいつでも来ることが出来たので、GWに出かけて渋滞に文句を言うのは筋違いかもしれません。しかしこんなに多い人と車にこれでも皆さんは楽しいのか、自分には甚だ疑問です。日本の大型連休は「苦しむためのもの」なのでしょう。自分は御免です。

適当な場所でコインパーキングに駐車してランドナーを組み上げます。昨日に制動系ワイヤー類のメンテを終えたばかり。その確認の意味を兼ねたランです。自転車を組んで南に三浦半島を南下します。車は多く、国道16号線は狭いトンネルを繰り返し横須賀市内へ。トンネルの中は音も反響し正直遠慮したいものです。左車線ぎりぎりを走る自分の神経もすり減ります。わずか数十センチの横を車が轟音で通り過ぎるのです。車よりも自転車のほうが機動力は高く、彼らを追い越しぬかれつつ、長い渋滞を抜けて観音崎への側道へ入りました。

観音崎にはユーミンの歌によると「歩道橋」があり、その下を「ドアのへこんだ白いセリカ」が走ることになります。それを楽しみに走りますが、残念ながら歩道橋もなく、当然ながら白いセリカも走ってきませんでした。この道を「幾人かのカップルが昔、追い越したり抜かれたり走った」と思うとそれだけでもうれしいものです。その面影もない今、すべては彼女の頭の中の世界なのか、単純に歌の世界から40年以上経っていてすべてが変わったからか、どちらかはわかりません。しかし、この風景にインスパイヤされてユーミンは詩を書いたのは事実でしょう。

僕はその世界を自分の漕ぐランドナーでゆっくりと味わうだけで楽しい。そしてそれは同時に、40年近く前に友人と車でここを走ったという少し色褪せた思い出に結び付く。

登り返しの多い道に喘ぐ。ギアーをローローに落としてふと頭を揚げると岩の目立つ高台に灯台がありました。あぁ観音崎灯台。そうつぶやいて風を体で感じて下っていきます。緩くても長い下り坂、自分の体が凧のように風を受け止めることを感じることが出来るのです。自転車の楽しみを知らない方には通じない喜びでしょう。

浦賀湾を渡る渡し舟にランドナーごと乗り込んで対岸に渡りました。小さな入り江でもそれは立派な渡船で、生まれ故郷の瀬戸内海を思い出させるのどかな風景と軽快なエンジン音とディーゼル排気ガスの匂い、潮の香りに惹かれました。久里浜に出て幹線道を追浜まで戻ったのです。

自転車屋さんの力を借りても自分でメンテした自転車は快調です。ユーミンの歌世界にも、40年近く前の自分の姿にも出会えました。

素敵なユーミンの歌と、学生時代のドライブが無ければ今回のサイクリングルートはなかった事でしょう。また一つ彼女の歌世界と自分の軌跡がつながりました。それは感謝であり喜びであり。長年の課題が一つ終わり、渋滞の中を軽やかな気分で自宅に帰りました。さて次は、彼女のどの歌と繋げましょうか。

(2022年5月4日走る。走行距離35キロ)

喧騒の国道を離れるとゆったりとした風景と潮の香りに包まれた

観音崎灯台を先に見てペダルを踏もう。ユーミンの歌が自分を包む。歌の世界、時の流れと風景の流れを縫い合わせる様に自分は走る。サイクリストのみが味わえるスローな世界。

小さな港を行き来する渡し舟。さて自分の乗る番です。

船員さんがしっかり押さえてくれて安心。しかし塩水が愛車にかかからぬか少し心配。波の無い静かな湾を、ゆっくりとクルーズ。

松任谷由実「よそゆき顔で」余り録音の良い動画ではないですが。オリジナル版のアレンジが素敵すぎるので自分はそちらを聴いてしまいますがネット動画サイトには上がっていません。https://www.youtube.com/watch?v=xKv-Mjbz5Ss&list=RDxKv-Mjbz5Ss&start_radio=1

牡丹の花、スミレの花

北風も止み桜の季節を迎えると、そろそろご近所さんのガーデニングの庭も楽しくなる。むろん他人様の家、しげしげ拝見とはいかない。が目を惹く花がある。薄桃色の大振りで綺麗にまとまった形は牡丹の花。その可憐さに散歩する人は思わず足を止める。また、路傍に目を向ける機会も増える。勿論桜も人様の庭も立派だが足元を見ないのは片手落ちというもの。住宅地の道路、舗装の割れ目から可愛い紫の花が咲いている。素朴な清楚さは、スミレだ。

園芸の花、牡丹。野生の花、スミレ。共通項と言えば、女性 ではないか。「牡丹のように華やかで芯のある女性」「スミレの様に可憐で純粋な女性」。昔の文芸作品にも映画にも、いかにも登場しそうだ。

自分の職場は地元の地域に根差したもの。地域内で生活の援助が必要なご高齢の方、あるいは子育ての悩みを分かちあう、子供と一緒にお菓子をつくる、又、これからの生き方を模索する、老後のために軽い運動をする。そんな子育て世代やシルバー世代の方々が個人で、グループで来所される。そんなご来所さんに対応するスタッフの多くは女性だ。

ご来所された高齢者の方々と共に遊ぶ。大きな声を出して盛り上げる。必要あれば入浴や排泄の介助もする。

担当されている方の体調が芳しくないと聞けば電話で懸命にフォローし、自転車を駆って訪問する。坂の多い街だ。荒れた天気の日もある。それでも電動自転車にまたがって、カッパを羽織って出かけていく。

子育てに悩むサークルの中に入り、共感し、策を探す。健康体操の音頭を取る。定年を迎えうつむき加減に悩む男性のつどいで今後について、明るく話題を提供する。

そんな彼女たちは、明るく美しく、芯が強く逞しい。何も見えない霧の中にポッと咲いた一輪の強い花の様に利用者さんには見えるのではないか。しかし夕刻に職場は閉館する。すると今度は身の回りの話などを明るく始める。その声に辺りはぱあっと華やぐ。懸命な顔から、肩の力が抜けたような素の姿へ。強く可憐な花は純な花にもなる。

ある日の夜、職場に突然家内が現れた。予想外の時間帯に開いた自動扉にスタッフ一同反応する。「ああ、どした?」と行くと、雨傘を持ってきてくれていた。そう言えば少し前から開いた窓の向こうから雨音が聞こえていた。

「やさしいのねー、素敵な奥様ね」
「いやいや、持ってこなくてもここの傘を借りるけど」

出る必要もないのに数名のスタッフは玄関まで出て家内に挨拶しそして小学生の様にはやし立てるのです。「いやー、真っ赤よ、顔が。照れてる」

しばしの間、格好のやり玉にあがってしまう。恐るべき女性スタッフ。これは僕の知らない花だな。食虫花とは言いすぎだが、居ずらいよ。

牡丹の華やかさは言うまでもない。ぱぁっと輝いて周りを明るくする。しかしスミレの花も甘く見てはいけない。豊かな土壌で無くとも地下茎をのばしコンクリートの割れ目からでも花を咲かせる。可憐さに加えそんな芯の太さ・力強さがある。自分と接する女性達は美しく生き生きとして、時に牡丹、時にスミレのようだ。

毎日共に暮らしている家内を筆頭に、人類の半分は女性。これからも長く続くだろう人生を豊かに暮らすには、世の女性達とうまく過ごしていくことが大切なようだ。花は美しくも逞しくも少しだけ棘や毒があったり。とはいえ女性の持つ素直で前向き、豊かな力には敬服するしかなく、自分はそれに従うだけだ。これからどう過ごしていけばよいのか。今まで通りお花を傷つけぬように自然体で行く、それしかまだ、答えらしいものは見当たらない。

牡丹の花もスミレの花も、素敵です。

 

二度とお呼びでない

玄関のベルが鳴ります。ドアを開けると青いつなぎのお兄さん。

「消防署のほうから来ました。消火器はありますか? 消防法が代わりまして、設置が必要です。今ですとお安くしておきますが。。置いておかないと罰則になりますよ」

その家にはたまたま家賃の支払いに現金があったのでしょうか。言いなりの金額を払い消火器1本を受け取ったとか、追い返したとか。。

ネット社会の普及によって個人情報を含むさまざまなデータがデジタルデータとして何処かに残りますね。クレジットカード番号と紐づけのデータもあります。Eメールには毎日ジャンクメールが来ます。所有していないクレジットカード会社名で「異常ログインがありました」、大手の通販サイトから「あなたのアカウントは停止されました」。いずれも「ついては下記へログインを」となります。

こんなのも来ました。「あなたが閲覧したアダルトサイトの履歴をあなたのPCに保存されている住所録へ無作為に配信します。あと24時間の間にこのサイトをクリックして停止手続きを取ってください」

ふ!こんなものに引っかかるか。しかし最後の事例は「やばい」。自分は聖人ではなく叩けば埃は出てきます。いわゆる「脛に傷がある」訳ですね。・・・この時ばかりは焦り、クリック寸前。

数日間家を空けて帰宅するとポストには配送業者からの家内宛の不在通知。早速家内は通知に従って再配達の手続きをしたようです。しかし電話を切って数分。「これはおかしい!!」と大きな声。

購入した身に覚えのない業者からの配送だったようです。調べてみると外国の業者。受け取り確認が取れたら金を送れと迫るのでしょうか、詐欺と書かれているサイトもありました。家内は直ぐに電話を掛け直し再配達は中止。運輸業者は「あああ、そうでしたか。最近よくあるんですよ、そういう事例。」と極めて当たり前に対応してくれたそうです。家内はネットでの注残品がまだあり、それが届いたのだろう、早く受け取らないと!と焦ってまずは再配達手配をしたといいます。

「脛に傷」、「焦り」、「罰則」そんな些細な事や言葉が偶然に重なりあうと思わぬトラップに引っかかるのでしょうか。騙すほうも人間の心理のエアポケットをよく研究しているようです。

個人のデータが様々デジタルなカタチで存在し、決済も現金でなくなり、落とし穴が増えました。アナログでも落とし穴があります。幸いに自分の親には「オレオレ詐欺」電話も、消防署のほうからも、銀行のほうからも電話も訪問者も来ないようです。自分も口を酸っぱくして注意しています。

詐欺を働く人はどんな心理なのか。彼にとって社会はつまらなく自分の居場所はないのだろうな。なぜ彼らはそこへ至ったのか・・。嫌な社会だ。何も起こらないような平等な社会があるのならばそれは理想郷。どんなに嬉しい事かわからない。しかし生憎くユートピアは想像の世界です。

ネットの買い物はしっかり覚えておくこと。毎月の明細に異常はないか見ておくこと。知らない人には応じないこと。

そんな事を自戒を含め偉そうに家内や親に言うのです。何といっても40年前に「数万円払って消火器一本を買った世間知らずの馬鹿な大学生」も、それなりに成長はしたのでしょう。やはり日々を注意深くすごし、さまざまなトラップから逃れるだけのようです。 

高い消火器は二度とお呼びではないのです。

相手は手を変え品を変え。嫌な社会です。

 

丸い円は、難しい。

紙を前に筆をとる。・・まあるい円を一筆で、と想像してみますが・・

ぐるりと筆で一回り、円を描くのは難しい。

心が丸くない、というよりゆがんでいるのだろうか・・・。

「円を描くには精神統一をするのですよ」、と言われます。しかしどうすれば高僧の様にうまく書けるのか、そんな目先にばかり考えが及ぶのです。

トゲもなく転がることが出来る。労せず何処までも転がりそうです。そして戦わずして万物と仲良く融合できそうです。尖っていると常に軋轢がある。そして尖ることに疲れる。しかし押せばつぶれる。実態は何なのだろう。円は難しい概念のようです。

とどのつまり、円は柔軟。自然体なのだろか、とも思うのです。

何度書いてもいびつな円しか描けない自分も、全てを受け入れ自然の摂理に逆らわなければ、いつかはもっと丸い円が書けるようになるのかもしれません。いままで尖っていることもありました。しかし社会を離れた今は、もう家庭にも、日々の世界にも、生理にも、為すがままに従えば、そんな日が来るかもしれません。

そんな事を考えさせられた、本日の「筆文字」市民教室でした。錫杖を持ったお地蔵さんは「今頃気づいたのかい?」と笑顔で笑いかけてくれます。

頭の中の、話です。

いつの日か丸い円に手が届くのか。お地蔵様はいつも笑ってみてくれます。

 

追憶の百名山を描く(8)・妙高山

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも体力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい、そんな風に思う。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

妙高山(2454m・新潟県妙高市

妙高という名を知ったのは小学生の頃だった。それは旧日本海軍巡洋艦の名前だった。太平洋戦争中に戦いで没することもなく戦後を迎えた数少ない軍艦。ミリタリーものの好きな小学生には強い記憶として残っていた。当時の日本の巡洋艦名は山や川の名前から取られていたので、自分はそれで日本の山河名を覚えたようなものだった。

しかし妙高山をはっきりとそれと認識したのは信越線周りの特急列車の車窓からだった。大学生の頃、親の住む日本海の街への里帰りの車中から、二本木、関山あたりからの左手に大きく聳える山、それが妙高山だった。殊勲艦の名を取られた山は、やはり堂々として力強いものだった。

ほぼ同時期に妙高はスキーで訪れる地となった。レルヒ少佐が日本にスキーを持ち込んだという由緒ある場所、豪雪地帯に赤倉温泉。暇だけは沢山あった学生時代には楽しいゲレンデだった。

実際の妙高の山頂を踏むまでは随分の時が経っていた。火打山の山頂にスキーで立ったとき、それは外輪山の向こうに頭をもたげていた。純白で優美な火打と比してこちらはオデキだらけの荒れた皮膚でおしろいの付きも良くない、男臭い山だった。登高欲を誘う姿とも言えた。

ゲレンデ上部からは静かな森林帯、しかし天狗平に出て目を剝いたのだった。鼻をつく硫黄の匂いと荒涼とした爆裂火口が眼前にあった。荒々しく尖りきった岩が累々とした中から噴煙はあがり、そこには間違いなく何かの命があるように思えた。人は生命の危機に面すると何処かで警鐘が鳴る。心の中のそれから逃げるように、一気に荒涼の地を左手に見下ろすように急な坂を上る。中央の火口丘である本峰の登りだった。

長い鎖場もあり、女性2名のパーティが如何に登ろうかと思案していた。高度感のある鎖場を登りきりやや進むと山頂の一角だった。

「頂上には巨岩が散乱して大きい岩は高き数米に及ぶものもある。その間にコケモモやガンコウランの類が毛氈のように敷き詰められているから、山上の庭園のような趣がある」そう深田久弥は記している。しかし長い登りにいささか疲れた自分はやや傾きかけた天気が気になり、雨の中をあの鎖場は遠慮したい、そんなことにせっつかれるように、充分な憩いも山上庭園を味わう事もなく山頂を下った。

* * *

後年、残雪期に斑尾高原周辺の山を歩く機会を得た。とある山頂は妙高山の展望台だった。眼前の妙高山が圧巻だった。神様の虫の居所が悪かったのか、地下のマグマが怒りを一気に放出したのだろうか、成層火山だった筈の妙高山も太古の噴火にその姿は変わり果て、噴火の傷跡も残る荒々しい姿を見せてくれる。

爆裂火口の例にもれず複雑な地形で、あの中を果たして自分はどうやって登ったのだろうと目で追ってみる。山頂直下の長い鎖場が思い出された。それもここからでは何処かは分からない。長いサイクルで生きている自然界にとって人間の営為など取るに足らないのだろう。

神様の作った気まぐれな造形物を今度こそ十分な憩いを持ちゆっくり眺め、再会の挨拶をしたのだった。

噴火爆裂した山体を正面から見ると、マグマが怒り拳を突き上げたように思える。あの山に登ったのか、と思うのだった。

 

ランドナーのメンテ ブレーキワイヤー交換

愛車も納車されてから10年近く経ちます。ピカピカだったクロモリフレームもいつしか傷だらけ。輪行は勿論の事、車に積んでも傷はつきます。旅の友であるサイクリング車に傷はつきもの。道具ですから。

傷はタッチアップペンで補修しますが、消耗パーツは定期交換しなくては。そんな消耗パーツ、タイヤは先日交換済です。ブレーキワイヤーを残していました。道具とはいえ旅の相棒です。きちんと手入れしていつまでも調子よく動いてもらいたいのです。

そこで前後のブレーキワイヤー一式の交換です。

東叡のランドナーはスタンダードフレームでも基本はトップチューブの中にリアブレーキワイヤを内蔵させるものです。フレーム発注の際に自分は考えて、右前からトップチューブに挿入させ左後ろからワイヤーを出す仕様としました。

そんなリアブレーキワイヤーは度重なる輪行トップチューブへの入り口で不自然に折れ曲がっていました。制動には問題を感じませんが交換しなくては、とずっと気になっていました。これからの時期に戸外で作業すると蚊が出てくる。。。今のうちに、と着手です。

フロントブレーキワイヤー一式の交換は簡単ですがリアのワイヤーはトップチューブの中に吸い込まれでお尻から出てきます。簡単にできるのか、色々調べます。ケーブルを入れるは良いも、トップチューブが単なる中空なら無事にお尻からケーブルが出てくるとは限らないのです・・。そこで一般には「ケーブルライナー」というガイドチューブを使うようです。リア側のアウターを抜いてケーブルは残す。そのケーブルに被せてそこからケーブルライナーを通していきフロント側に顔を出させる。これで中空地帯の中にストローのようなガイドが通りました。ケーブルを抜いてストローであるライナーへ新しいケーブルを挿入する。そんな使い方のようです。

しかし、杞憂でした。このサイクリング車を組んでくれたお店のご主人、「東叡社のフレームは心配いりませんよ。スタンダードフレームでも、トップチューブの内側にさらに細いチューブ管を溶接しているからケーブルライナーが内蔵されているようなものですよ。」という心強いお言葉。

それでは、とサクサク作業は進みました。アウターとワイヤーを交換するのです。アウターの中身にはスプレーグリスを、ケーブルにはたっぷりグリスを塗ります。

アウターの切断箇所にはエンドのキャップをかぶせますが、フレームの受け側の径がキャップよりも小さい個所もあります。そこは結局アウターの切断面だけです。このあたり、実際にいじらないとわからない箇所です。

一通り形になりましたが、ブレーキワイヤーを締め付けるところで苦戦しました。自分のランドナーはセンタープルブレーキです。フレームの台座もそのブレーキにぴたり合うように作られたのです。センタープルブレーキはシューの付いたブレーキの左右の穴にアーチワイヤーを装着します、アーチワイヤーのその左右端部には「タイコ」と呼ばれるまさに小太鼓のような平たい球がついており、これをブレーキの左右の穴にはめるのです。アーチワイヤーの真ん中には「チドリ」と呼ばれるパーツがあり、このチドリにはブレーキワイヤーが通り、固定されます。このチドリへのブレーキワイヤーの固定に苦戦したのです。適当な長さで仮締めしますが、ブレーキレバーを握ってもブレーキはスカスカに近い。仮締めをほどいて何度も調整していくのです。ランドナーにはカンチブレーキが一般的です。左右のブレーキシューは簡単にリリース出来てメンテも楽。そして効きも良い。しかし、センタープルブレーキの持つ単純でいて端正なカタチが気に入ったのですから苦戦は仕方がないのです。

センタープルブレーキは

・ブレーキレバーを引く
・ブレーキワイヤーが引っ張られる
・つられて「チドリ」が引っ張られる
・「チドリ」を介してアーチワイヤーが引っ張りあがる
・アーチワイヤーの引っ張りあがりに従い左右端部の「タイコ」を介して左右のブレーキが引っ張られてシューがリムを挟む

そんな動作原理です。
やじろべえのような「チドリ」の真ん中を引っ張り上げて左右のシューを締め付ける。良いデザインです。もっともここまで調整がやりにくいとはあまり考えなかったのは迂闊でもありました。カット&トライが続きますが納得できる着地点には至りません。右手でシューを左右から強く挟み左手でブレーキワイヤーを引っ張り、ここぞと思った箇所で空いた手でやじろべえのネジを締め付けなくてはいけません。我流だとすぐに緩みます。安全上クリティカルなブレーキワイヤー、あまり何度も締め付けたくありません。

しかたなくここで愛車は彼が組まれた故郷のドックに持ち込まれました。

自転車屋さんのご主人、「センタープルは大変でしょう。スッキリして奇麗だけどね。調整は、勉強ですよ」

ポイントを押さえながら前後のケーブルを締めてくれました。

・ブレーキレバーの輪行用のリリースはあらかじめ解除しておいてから作業開始
・シューを手で挟みワイヤをプライヤで引っ張る。これと思った箇所でいったん強めにケーブルのネジを締める。シューの遊びとケーブルの関係性の仮決め。
・レバーを握る。今回はこれでは緩い。
・太鼓の片側だけを外し、ブレーキワイヤにテンションがかからないようにしてからチドリのネジを緩め、少しケーブル固定箇所を短めにセットし直してから締め直す。
・ブレーキの利きをチェック。
・少しきつめにセットしたようです。それでも緩ければ今度はタイヤを外してからブレーキの遊びをきつめにセットします。きつすぎてタイヤがはまらない場合はタイヤの空気を一旦抜いて装着します。自分の輪行スタイルでは基本リアタイヤは外さないので、これで良し、と考えました。
・ブレーキワイヤーの固定には、バイスプライヤーも使われていました。

ああ、さすがプロです。我が身の未熟を認識ます。あとは余ったワイヤーをカットして、その処理は、ステンレス用ハンダで、半田付けを残すのみです。「ありがとうございました。後はやりますよ。これで走ることが出来ました。」

「もう少し自転車を磨いてくださいね・・・綺麗にしてあげてください。」・・・製作者としては泥と油汚れしている我が子が情けなかったのでしょう。雑なユーザーで申し訳ないと思います。

あと、一点。ワイヤー交換の直接的な原因となったリアブレーキケーブルのフロントチューブ挿入口での「折れ曲がり」について。「輪行の際はブレーキケーブルが自由に動かないようにタイラップやベルクロでケーブル挿入口あたりを巻いて、ケーブルに角度が付かないようにしてくださいね」、そんな親切なお言葉を頂いてから、店を後にしました。

最後はプロの手を借りました。昔からの熟練のランドナー乗りにはこれらはすべて朝飯前の話でしょう。しかし、自分はまだ何も知らない事ばかり。プロの技を見ることが出来て、とても嬉しく楽しいひと時でした。

さて、明日は、走ります。

度重なる輪行で塗装のダメージ在ります。リアブレーキワイヤーもフレーム内蔵入り口で不自然に折れ曲がってしまいました。これが今回のケーブル交換の引き金になりました。

ブレーキワイヤーのトップチューブ挿入部を抜いてみると・・丈夫なアウターケーブルカバーも折れ曲がり千切れかけていました。これではブレーキの引きにもストレスかかります

トップチューブに内蔵溶接されたインナーパイプのお陰でワイヤー交換は容易です。こんな精緻な工作をしてくれるフレームビルダーさんには敬服あるのみ!

センタープルブレーキの機能的なカタチに魅了されます。MAFACと行きたかったところですが、国産品なるもこのダイアコンペの赤ラベル(DC750)に惹かれてしまいました。

プロの手を借りて無事に調整終了。帰宅後ステンレス用ハンダを用いてワイヤー端部を処理します。ワイヤーキャップよりも見栄えはずっとよくなりますので、いつも端部はハンダ処理です。

タイヤもブレーキケーブルも新しい。自分でも手をかけました。そんな後のサイクルツーリングは嬉しく、楽しいものですね




森の聖母が棲む山 鍋倉山スキー行

鍋倉山(海抜1289m)の名前に接したのは20年以上前だろうか。

バックカントリースキー山スキーは自分には「ネイチャースキー」というネーミングで入ってきた。それは急峻な山岳地帯をも活動の対象とするアルピニズムの一形態である山スキーよりも、雪の森をゆっくり楽しもう、というコンセプトの下、活動エリアをもう少しハイキング寄りにしてみようと提唱したものだった。橋谷晃氏の著作「ネイチャースキーに行こう」(スキージャーナル社刊)が格好の入門書だった。

「ヒールフリー」・・踵の上がるスキー。つまりテレマークスキーを道具として雪の野山を歩き登り滑降する。楽しみ方、装備、お勧めルートガイド、書に書かれた内容はとても楽しく夢中になり、実践すべく即座にアルペンスキーを離れ、テレマークスキーに転向した。そしてそれを履いて即座にその魅力に惹かれた。歩行、登高、滑走、滑降がシームレス。テレマークターンという技術を体得するのも楽しく、また、なによりもスキーとしての能力がアルペンスキーと遜色ないところに惹かれた。雪の世界を翼が生えたように気軽に楽しめる開放感があった。踵を固定しないとはかくも素晴らしいのか。踵を開放して自由を味わう。「ヒール・フリーはフィール・フリーの事なのか・・」。自分の足前では急峻なルンゼ滑降などは縁のない世界で、その点に於いて必要十分な道具だったのだ。そんな新しい世界を教えてくれた書には感謝しかない。

そのガイド本にお勧めルートとして案内されていたのが鍋倉山だった。雪原を抜けてブナ林を登り山頂に立つ。下りは快適なツリー・ラン。そんなガイド記事は夢のようだった。

* * *

前回の鍋倉山スキー行から9年経っていた。前年に病を得た自分には長いルートは体力的に不安があった。鍋倉山も道路の除雪前は東麓の飯山市・温井集落が起点となりそれなりの長い行程だった。しかし飯山市の観光課に確認しGWの初日に間に合うように除雪が上までされると知り、これならば行けそうだな。まずは病後の実績作り。そんなことで山仲間と共に予定したのだった。天候予測が不安定だったので戸狩の民宿を2泊予約した。友は慎重に天気を読んでベストな日で臨む山だった。

予め行政に確認した通り、地理院地図の標高880m地点が除雪地点だった。9年前は温井集落から狭い沢を詰めプラトーに上がり、鍋倉山と黒倉山の鞍部に突き上げる沢をルートにした。今回はその鞍部に突き上げる沢と車道の合流箇所がその除雪地点で、全体のルートは前回の半分以下となっていた。

前回は4月半ば。今回は4月後半。2週間の違いを如実に感じたのはブナ林の、カラマツ林の芽吹きだった。前回はまだ白と黒のモノトーン。今回はそこに新緑が混じった。新緑が雪に映え、山全体に緑色の精霊流しが灯っているかのように見えた。しかしその新緑も標高をあげていくと芽吹き前のモノトーンへ戻る。・・・そうか、桜と同じだな。新緑も山麓から始まり、山の上に進むのか・・・。

自分のスキー登高速度と新緑が山の上まで進むのはどちらが早いのだろう。自然と追いかけっこか。新緑の速度に負けるのならそれも嬉しい話だな。自分も「自然界の一部を構成するただの「水と炭素の塊」にしかすぎない」のだから。

ゆっくりと沢の左岸の小広い林間を登る。右手の斜面が強くなり海抜950mあたりで左手の沢に下りた。前回もそんなルート取りをしたと思う。沢に入ってからは傾斜が強まる。しかしシールは快適に雪面を捉えてずるりと後退することもなかった。

沢の源頭部に近づくと扇子を広げたように上方視界は広がり、紋様が目に優しいブナの巨木が点在する。太い幹で雪にも負けず、新緑は鮮やかで紅葉は燃える。ドングリを落として動物も土も大喜び。そんな自然と共生するブナには強い生命力を感じる。だからブナの林には「癒し」がある。ブナは欧州では「森の聖母」と呼ぶと聞く。確かに、彼女たちを前にして、自分の安らぎと喜びには限りがない。それがきっとマリア様のような慈愛、という事なのだろうか。

最後のひと汗で稜線に立った。9年前には登らなかった黒倉山をまず踏んでみる。ややブッシュが多いがここで稜線はほぼ90度北東方面に、越後平野に向けて屈曲する。そんな長い背稜が眼下に続く。日本海からの雪雲を最初に受けるのがこの稜線だ、とよくわかる。だからGWでもたっぷりと雪が残っているのか。

鍋倉山へ登り返すためにシールをはがさずに鞍部迄滑り降りる。鞍部からは尾根の新潟側が滑落の危険もなくそちらを拾いながら鍋倉の山頂に立ったのも前回どおりだった。

山頂は9年前と変わらなかった。ゆっくりと時間を取り、長い稜線を目で追って記憶に残した。クジラの背中は長く北に伸びいつしか天空に消えている。穏やかな背稜と越後の平野の境は分明ではなく、また日本海も同様だった。この稜線が「信越トレイル」として人気のトレッキングルートと知ったのは数年前だった。地元のボランティアによるルート整備のお陰なのだろう。雪が解けてから再び雪に閉ざされるまでは人気のトレイルになっている、と聞く。トレイルが車道に遭遇する箇所には幕営指定地もある。また、そんな地点へには地元の民宿が送迎してくれるという。ここは名だたる豪雪地帯だ。雪は長くは厄介者。しかしスキーと温泉がそれを変えた。それも人気に浮き沈みはある。トレッキングが注目されている今日、そんな努力でハイカー客が増えて地元もより潤うとすれば新しいエコシステムなのかもしれない。

シールを剥がしてワックスを塗る。滑降は呆気なかった。勝手知ったる谷筋へ向けて四月末のザラメ雪は快適でテレマークターンも楽しい。ブナのツリーホールに落ちないように注意しながら滑り下りる。この心地よさが自分を山スキーの虜にしている。

沢はやがて狭まり何処かで左岸に上がりたい。無理を承知で少し早めに左岸に上がってみるとやはりまだその先は狭く、仕方なく板を外して沢へ尻セードで沢に戻る。「自然の摂理に逆らっても無意味だよ」そう地形が教えてくれる。沢をもう少し横滑りで下り、プラトーに戻りスキーを外した。

9年前よりは短縮されたルート。しかし生命力に満ち溢れる新緑のブナ林は自分には優しい。病の床で山スキーはもう無理だろう、と遠い夢に思えたが今となってはそれも又遠い話と思えた・・。ベストな日で登ることが出来たのは友のお陰、感謝しかない。会心のGWの山には「森の聖母」が棲んでいた。そしてその中をこれまでのように山スキーで訪れ、その柔らかで慈愛に満ちた空気に触れることの喜びが、そこには在った。

鍋倉山山頂からは信越トレイルの果て無き山々がリラックスして北に背中を伸ばしていた。その風景の広がりに、山と平野と海の境は定かではなかったのだった

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今回の鍋倉山はスキーでの入山者は8割か9割。そしてそのやはり8割か9割がテレマーカーテレマークスキーの聖地なのか・・。山梨県北杜市から来たという単独行テレマーカー氏はシールも張らずにウロコで登られたという。鍋倉山を目的地とせずに除雪されていない道を関田峠までピストンしてきたテレマークパーティにも会う。色々な楽しみ方がある。皆さん「ヒールフリーはフィールフリー」。そして無雪期は長いトレイルをトレッキングか・・。

鍋倉山、この山域は自分にとっても何か新しいものを教えてくれる。「自然の摂理に抗わずに、楽しめることをしていく」。地元の観光協会で手に入れた信越トレイルのパンフレットを見ながら色々な空想が頭に浮かぶのだった。

「森の聖母」ブナの木。雪をものとせず、その温もりで周囲の雪を解かす。強い生命力と美しい紋様に、自分は無力で幸せな降伏をする。