日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

追憶の百名山を描く(8)・妙高山

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも体力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい、そんな風に思う。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

妙高山(2454m・新潟県妙高市

妙高という名を知ったのは小学生の頃だった。それは旧日本海軍巡洋艦の名前だった。太平洋戦争中に戦いで没することもなく戦後を迎えた数少ない軍艦。ミリタリーものの好きな小学生には強い記憶として残っていた。当時の日本の巡洋艦名は山や川の名前から取られていたので、自分はそれで日本の山河名を覚えたようなものだった。

しかし妙高山をはっきりとそれと認識したのは信越線周りの特急列車の車窓からだった。大学生の頃、親の住む日本海の街への里帰りの車中から、二本木、関山あたりからの左手に大きく聳える山、それが妙高山だった。殊勲艦の名を取られた山は、やはり堂々として力強いものだった。

ほぼ同時期に妙高はスキーで訪れる地となった。レルヒ少佐が日本にスキーを持ち込んだという由緒ある場所、豪雪地帯に赤倉温泉。暇だけは沢山あった学生時代には楽しいゲレンデだった。

実際の妙高の山頂を踏むまでは随分の時が経っていた。火打山の山頂にスキーで立ったとき、それは外輪山の向こうに頭をもたげていた。純白で優美な火打と比してこちらはオデキだらけの荒れた皮膚でおしろいの付きも良くない、男臭い山だった。登高欲を誘う姿とも言えた。

ゲレンデ上部からは静かな森林帯、しかし天狗平に出て目を剝いたのだった。鼻をつく硫黄の匂いと荒涼とした爆裂火口が眼前にあった。荒々しく尖りきった岩が累々とした中から噴煙はあがり、そこには間違いなく何かの命があるように思えた。人は生命の危機に面すると何処かで警鐘が鳴る。心の中のそれから逃げるように、一気に荒涼の地を左手に見下ろすように急な坂を上る。中央の火口丘である本峰の登りだった。

長い鎖場もあり、女性2名のパーティが如何に登ろうかと思案していた。高度感のある鎖場を登りきりやや進むと山頂の一角だった。

「頂上には巨岩が散乱して大きい岩は高き数米に及ぶものもある。その間にコケモモやガンコウランの類が毛氈のように敷き詰められているから、山上の庭園のような趣がある」そう深田久弥は記している。しかし長い登りにいささか疲れた自分はやや傾きかけた天気が気になり、雨の中をあの鎖場は遠慮したい、そんなことにせっつかれるように、充分な憩いも山上庭園を味わう事もなく山頂を下った。

* * *

後年、残雪期に斑尾高原周辺の山を歩く機会を得た。とある山頂は妙高山の展望台だった。眼前の妙高山が圧巻だった。神様の虫の居所が悪かったのか、地下のマグマが怒りを一気に放出したのだろうか、成層火山だった筈の妙高山も太古の噴火にその姿は変わり果て、噴火の傷跡も残る荒々しい姿を見せてくれる。

爆裂火口の例にもれず複雑な地形で、あの中を果たして自分はどうやって登ったのだろうと目で追ってみる。山頂直下の長い鎖場が思い出された。それもここからでは何処かは分からない。長いサイクルで生きている自然界にとって人間の営為など取るに足らないのだろう。

神様の作った気まぐれな造形物を今度こそ十分な憩いを持ちゆっくり眺め、再会の挨拶をしたのだった。

噴火爆裂した山体を正面から見ると、マグマが怒り拳を突き上げたように思える。あの山に登ったのか、と思うのだった。