脳腫瘍の開頭手術をし、追って化学治療を終え退院しほぼ1年、経過観察モードに入って10カ月。そんな時の経過を持っても未だに謎な事がある。少しそんな不思議な事を振り返り思い出したいと思う。それは脳の不思議。音楽を巡るスピリチュアルな経験だった。
自分が突然の容体悪化で救急車で病院に搬送されてから手術が終わり脳外科専門集中治療室(SCU)で目が覚めまるまで6日間。その間の記憶は殆ど、いや、一切ない。なにも6日間も手術していたわけでもなく、その前に術前MRIや頭の機能検査などをこなしており、帯同していた家内に財布を渡し、何かの際にとクレジットカードの暗証番号をも蚊の鳴くような声で教えていたという。これらの事はすべて家内から後日譚として聞いた話で、自分自身は、病院搬入後から、SCUで意識を戻すまでは全くの記憶もなく、それは長かった一日のでき事として未だに認識している。全身麻酔を使う手術を経ると、術前記憶など混濁とするのだろう。
術後SCUにて目が覚めた最大の要因は「抜管」であった。これは手術中に各種バイタル機能を維持するために口から体内に挿入されていた管の束を、一気に引っ張り出す。激しい嗚咽と不快感を伴うもので、覚醒せざるを得ない行為だった。出産に近い感覚ではないか、と今更思う。そして、同時に今自分は手術室ではないところにいる。集中治療室か?何か終わったな。と感じた。あ、周りに看護師が沢山いる。何かを口走ったのだろう。「あ、ずいぶんしっかりと喋れるようになったね!良かった!」と皆さん喜んだのが非常に不思議でもあった。
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再び意識が遠のく中、ここで、突然自分の中で音楽が鳴り始めたのだ。ドン・ドン・ドン・・という力強いリズムセクション、それに生命力溢れる強烈なリードボーカル、重厚なコーラス。これが何度も何度も眠りから呼び戻してくれた。リズムセクションはまるで自分の心臓を刺激するかのように響き、とんでもない力量のリードボーカルはただただ自分に「生きろ」と言っているとしか思えなかった。
何度も遠のく意識の中、「あ、この曲 QUEEN だよな!」とようやく気づいたのだった。
この強烈すぎるヴォーカルはフレディだ。フレディが例の調子で朗々と歌い聴くものを圧倒させている。ロジャーとジョンがやたらにタイトなリズムをたたき出している。ブライアンが華麗なギターで飾っている。まさに QUEEN そのものだった。しかもその導入、サビから多重のコーラス迄、曲の構成をほぼ完璧に思い出した。これは凄い、なんていう曲だろう。
そう、残念ながら QUEEN をまじめに聞いたのは17歳から18歳のころまで。クラスメイトの女の子からカセットにアルバム何枚分も録音はしてもらってきいた程度だった。重たいロックが好きだった自分は余り熱中しなかったのだ。数年前の映画「ボヘミアンラプソディ」は郷愁から見たが、その中にもこの、意識の覚醒とともに大きく脳の中で鳴り響いたこの曲は出てこない。
するとこの曲は40年もの長きに渡り大脳皮質の何処かに深く埋没していたことになる。そんな気の遠くなるようなインデックスの中から、この曲が突然出現し自分を勇気づけるかのように、一気に鳴りだしたったのは一体何だったのだろう。事実それは自分に気力を与えてくれ、まるで海岸を目指すウミガメの子供の様に、這って這って先に進ませてくれた。それはまさに音楽の持つスピリチュアルな力、出来事としか言いようがなかった。
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もう一つ。術後せん妄と戦いながら何度も頭に浮かんでは消えて行った風景、そして、音があった。
フランスの明るい雑木林の風景だった。パリから何度も輪行してサイクリングで訪れた、ある森の風景。秋の残照に浮かび上がる広葉樹の黄色い葉はことのほか美しく、それは日本の雑木林の秋にも近かったが、より庭園的で、まとまりがあった。そう、フランスの作曲家・モーリス・ラヴェルの家があるモンフォール・ラモリの風景に相違なかった。
救急車で病院に搬送され、脳腫瘍と判断された時に自分は
と言ったとその場に立ち会っていた家内と次女は後日話してくれた。自分はひどく冷静にそれを言ったという。その記憶はあまりなく、すでに半分以上の意識は喪失していたのだろう。
夢うつつが繰り返されると、その優しい秋の雑木林は飽きもせず現れては消えていく。そしてその都度秋の寂しさ感じさせる、柔らかくともノスタルジックな音楽もまた、頭に浮かんでは消えていく。これは、疲れ切った自分を優しい毛布でくるめるかのように包み込んで、慰めてくれているように感じたのだった。
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手術後に自分に力を与え、癒してくれた音楽たち。改めてじっくりと、何度も聴いている。
・QUEENの楽曲: The Prophet's Song (預言者の歌)
この曲の持つ爆発力とエネルギーは意識覚醒時に頭に去来したものを遥かに超越しており、脳外科入院中を通してずっと、これを聞くたびに肩が震え涙が止まらない、という異常な経験をしたのだった。40年ぶりに突然忘却の彼方から出現し自分を生の世界へ引っ張ってくれたのだ。
・ラヴェルの楽曲名: Menuet Antique(古風なメヌエット)、Pavane pour une infante Defunte(亡き王女のためのパヴァーヌ)
ラヴェルの音楽は学生のころから好きでよく聞いてきた。フランスののどかな風景を想像させる鮮やかさに惹かれたのだろうか。そんなラヴェルは1930年代に、世を去っている。死因は脳腫瘍だったという記憶があった。それが自分の病の診断直後に頭に浮かんだ理由だろう。当時の脳の病。果たして手術を受けたのか。受けたとしたら、今の様にCTやMRIもない時代、頭の外科手術はまさに死地への旅以外の何物でもなかっただろう。それは絶えない出血と未知なる切除野の選択。医師にとっても賭けとしか言いようのない旅へ、ラヴェルと医師団はどんな気持ちで臨んだのか。それを考えると、集中治療室のベッドの中で自分は思わず嗚咽した。自分は現代の技術で目下生きている。ありがたいとしか言いようがなかった。
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音楽の持つ力は素晴らしい。それは想像を超えてスピリチュアルな世界迄及ぶ。僅かではあるが様々な音楽に触れあってくることが出来た。あるものは大脳皮質の彼方に消え、あるものはミミタコとなって陳腐化し、あるものは未だに鳥肌を立たせる。ただそのいずれもが、自分にとっての大きな資産であり、かけがえのない最高の友達、そしてある時は命さえ救ってくれる医師。自分にとって音楽にめぐり逢うとはそんな代物でであることがわかったのだ。
また脳の不思議さにも舌を巻く。沢山の引き出しの中に雑多な事物をしまい込み、必要なものをある時は恣意的にそして論理的・必然的にそれを引っ張り出してくる。なんというメカニズムなのか。
脳にも音楽にも無限の可能性があり、自分は沢山の未知なる世界に囲まれているように感じている。(2022年4月24日・記)
動画サイトより関連曲のリンク。
QUEEN
The Prophet's Song https://www.youtube.com/watch?v=U2YuVxN9sVc
モーリス・ラヴェル
古風なメヌエット https://www.youtube.com/watch?v=VUurEZtY-0E 小澤征爾・ボストン交響楽団
亡き王女のためのパヴァーヌ https://www.youtube.com/watch?v=7UiA6mhFFoo カラヤン・ベルリンフィル