日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

幸せの辛い皿 - 適応障害

約2年ぶりです。以前の会社のあった街を訪れました。

当時高校生だった娘の土曜日の学校帰り、少し家の外で勉強したいという事で自分が勤務していた会社の地下の大きな吹き抜けのベンチで待ち合わせをしたのです。その日自分は残務処理で休日出勤。そしてセーラー服姿の娘と二人で昼食にとタイ料理の店へ。娘はとても嬉しそうにグリーンカレーを、自分はタッパイを食べました。喜んでいる娘を目の前にして、自分は肩の荷が大きくとれて少しだけ楽になった。しかし、食事が終わりオフィスに戻ろうとすると、自分の心の中に再びは深い霧と、苦々しく重たい空気に包まれたのです。

その街の、そのビルには、自分は苦しい思い出しかありませんでした。

当時は組織を束ねる役職でした。事業方針にのっとり、活動の戦略を立て実施をしていく。あるいは事業方針そのもののたたき台をつくり組織内で合意形成を図りまとめあげていく。そして実行計画の実行実績を経営陣に行う。どちらもやりがいのある仕事でした。

しかしそんな仕事の実行は独りでやるものではなく、組織でやる。PDCAを速く回せ、と分かっています。しかしなかなか個々の案件にも決断もつけずらい。この判断が正しいのかという自問自答は常にある。ロジカルシンキングが苦手なのはよく自認していたので、そんな本もたくさん読みました。しかし思考回路に対する自信も確信も持てない自分には不向きだった仕事かもしれないのです。自分の方針に疑問を持ち異を大きく唱えるメンバーも出てきます。それに対してロジカルに答えられないのなら組織も回らないだろう。組織の人間関係は悪い方向に回ると全体的なムードとしてそれが定着します。やがて自分は組織の中のに居る事もそのポジションも辛くなったのです。

会社に行っても、PCの電源を入れ明るくなったモニター見て手はキーボードに置きますが、指は固まって動かない。そんな状態が長続きするわけもなく、思い切って予約を取り、精神科の診療を受けました。白い部屋の中で、目の穏やかな先生はゆっくり自分の話を聞いてくれました。「適応障害」、これが自分につけられた病名でした。もっと進むと「鬱病」に行く、そんな、ほんの一歩手前でした。

この病との戦いはこのあとも数年続きます。そんな一番厳しい時期を過ごしたのが、このビル、この街でした。それが原因ではなく、これは志願したのですが、希望退職という形で会社を去ったこともあり、何かと思う事が多い場所なのです。

たまたま先日、今は就職し県外で一人住まいを始めた娘が仕事で都心に出てきて時間が取れたからお昼を一緒の食べないか?と誘ってきました。僕は、うん、ではあの思い出のカレーを食べよう、と自ら言ったのです。あのビルで、グリーンカレーを食べる。その地にまつわる自分の辛い日々と複雑な思いを知る家内は心配しました。嫌な思い出を思い出すのではないか、と。

しかしそこに行って、まだ幼さの残る娘と食べたカレーを再び一緒に食べたいという思いはずっと自分の中に在りました。あれはまさに苦しいさなかのひと時の救いで、あの味は忘れられないのだから。辛い思い出も、もう大丈夫でしょう・・、そんな気持ちでした。

ビル街もあの頃のまま。店舗はコロナの影響もあり入れ替わったり閉鎖されていたり。リモートオフィスも進んだのか会社員の数も減ったように思えます。ランチタイムはとても事務所にいることも出来ずに、誰にも会わないように、戸外やビルの休憩スペースの陰で、壁を向いてお弁当を食べていました。そんなそこかしこに思い出があります。しかしもはや心臓が怪しく鼓動する事もなく、「ああ、ここで悩んでいたね。この店で上司に辛さを吐露したな」その程度でした。

「苦しんだ思い出」「辛い思い」も、思い出は残るが、過ぎてしまえば記憶の中に埋まるようです。日に日に一日を過ごすたびにそれがレイヤーとなり頭の中に重なっていくのでしょう。家内と娘と食べたグリーンカレーもタッパイも、これまで食べた中で一番おいしい味でした。そう、それは「幸せの辛い皿」。もしかしたら料理の辛さも「苦しんだ思い出」を吹き飛ばす手伝いをしてくれたのかもしれません。もう掘り返す必要もない、あるいはそれを掘り返して客観的に見直す事すらできる、そんな今に感謝をするのみです。

娘は自分の住む街へ帰り、自分達も家に戻ります。去り行く娘の背中を見ながら、「ありがたい話だね」と家内に話したのです。

苦しい中で何かにすがるように食べた料理も、今は「幸せの辛い皿」だったのです。