日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

●脳腫瘍・悪性リンパ腫治療記(17)「脳外科を退院する日」

頭の手術跡はだいぶ癒えたようだ。ある日、「そろそろ外しましょうか」と看護師さんが手術野を縫合をしていたステイプラを取り外した。触ってわかってはいたが、糸ではなく大きなホチキスか。こんなのが自分の頭に刺さっていたのか。

そしてしばらく後、ようやく細胞分析結果が医師から告げられた。これで退院おめでとうなのか・・。

いや、「中枢神経原発びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」。長ったらしいこれが自分の腫瘍の病名だった。悪性リンパ腫?。良性の腫瘍ではなかったのか。悪性か。ガンなのか。

医師の説明は簡潔で明瞭だった。

・最悪の事態と危惧されたグリオーマではなかった。
・多臓器から転移した腫瘍ではなく、脳の原発性の腫瘍であった。
・中枢神経原発びまん性大細胞型B細胞リンパ腫は決して予後の良い病ではなく再発のリスクも大きい。しかしこのリンパ腫は化学治療で退治が見込める。
・これから化学治療で直していく事になる。脳外科の範疇は終わり。当院では血液内科がないので、転院してもらうことになる。○○病院をお勧めします。良いですか?

良いも悪いもない。ただ、しばらく過ごしていたこの病院を去るのは少し寂しい気がする。ストックホルム症候群ではないが、病室でも長くいれば、そこは我が家で、幾つもの浮き沈みがあった思い出の地。そんな風に感じたのは意外だった。

医師の説明は以上で終わり。ネットで改めて自分の病名を調べてみた。・・・愕然とした。5年生存率の低さ。これは何なのだろう。

嘘だろう、なんで俺が・・・・涙が出た。

なんだ、あと5年生きることが出来ないのかもしれない。体から力が抜けて行くのを感じた。家内に電話をして病名を、その想定される余命とあわせ、ネットの記載通り伝えた。

家内が電話先で嗚咽しているのが聞えた。でも、自分は、大丈夫だとしか言いようがなかった。自分の慟哭の峠はいつしか終わり、出るべき涙はとうに枯れていた。

そして、そう話しているうちに「まだ決まったわけではない。治癒は見込める。とにかく自分のやりたいことをやって、後悔なく生きればよい」、そういう思いがますます強くなってきた。それだけをよすがにして、次の治療に挑むしかないのだ。

自分の最悪ケースの場合での寿命を統計学的に知っても、暫くしてからは驚くほど冷静だった。最初に驚き、涙が出た。が、しかし、それを抑える気持ちに加え、大丈夫生き抜いてみせる、という思いが支えになった。その支えは「自然に包まれて、自分の好きなことをして生きる」、という強い思いだった。

新たに就職した仕事はどうなるんだろう、いや、仕事よりも、残っていると思わる時間を有効に使う。一瞬も惜しい。そう、自分には時間がない。一般病棟に移り自由に歩けるようになってから売店で買ったノートの表紙に大きく名前を入れた。「お釣りで過ごす、人生ノート」。そう「お釣り」。会社も辞めた。再就職した会社はこれでは働けないだろう。子供も巣立ち、巣立つめどがついた。だからもう自分の人生のフェーズは「お釣り」。何故かそんな言葉が頭に浮かんだのだった。

新しい入院先から受け入れの許可が出たという事で、私の退院日が決まった。コロナ下でもあり、一度家に戻るのではなく、そのまま次の病院へ転院へとなった。2021年2月12日。約3週間を過ごした脳外科を退院する日。手術野を止めていたステイプラの最後の一つが右に耳の付け根にあった。これを最後に看護師さんが外し膿盆に入れるとカチリと金属音がした。次に何が始まるのだろうか。

コロナで実際の面会がかなわなかった家族、そして母が迎えに来ていた。母は3年前に娘を同じく脳の病で失っており、今回の自分の病を前に憔悴しきっているのがすぐにわかった。

タクシー2台に分乗する。振り返り仰ぎ見る病院は驚くほど背が高い。あそこに居たのか。あそこで脳腫瘍を切除したのか。わずか3週間の事がまるで遠い昔にも思える。30分ほどで新しい病院に着いた。母と娘たちとはここでお別れ。コロナなので長居できない。ここから先の入院手続きから、ドクターとの面談には家内の同伴となった。

「お釣りで過ごす」人生か・・。何があっても、お釣りを使い果たしてやろう。悔いが無いようにしたい。そんな思いだった。いつしか私の「人生ノート」には走り書きとはいえ多くの文字が書かれているのだった。

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傷口を止めていたステイプラも取り外された。脳外科は退院だ。