日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅10・新約聖書を知っていますか(阿刀田高)

・「新約聖書を知ってますか」(阿刀田高著・新潮文庫・平成8年)

今になって悔いている。もう少しとりわけ「あの講義」はもっとまじめに受ければよかったと。そもそも学生生活で講義をまともに受けたこともない不真面目な学生だった。様々なジャンルの講義を受け試験があり単位を貰い卒業できた。大半の試験は友人から入手したノートの写しで勉強したので酷い話だった。しかし今思えば面白い授業が多かった。結構真剣に取り組み教授に質問をしに行った講義もあった。

ふと思い立って母校に電話してみた。「卒業生ですがどうしても受けたい講義があります。受講料は払いますから」。しかしつれない答えだった。何故だろう、知識を得たい人がいて、知識を授ける場所がある。磁石のプラスとマイナスだ。なぜ離反させるのだろう。

プロテスタントの我が母校は「キリスト教概論」という講義が必須科目で、学部問わず教養課程で取得するべきものだった。それをもう一度受講したいと思ったのだった。脳腫瘍と血液の癌で入院していた病院。リハビリを担当してくれた療法士さんがキリスト教に造詣が深かった。また病床でよく連絡を取った大学時代の友人はカトリックの信者さんだった。信心のない自分でも、そんな彼らからの話を聞いて何らかの「救い」が欲しかったのだろうか。なにせ流木にもすがりたい日々だった。

病床で入手した本がミステリー作家として知られる阿刀田高が書いた本だった。そもそも旧約聖書新約聖書の違いも知らない。恥を忍んで書くならばカトリック旧約聖書に、プロテスタント新約聖書に依るなどと勝手に推測していたほどだから、無知のレベルが良くわかる。

旧訳と新約はキリスト誕生以前と以降に分かれていると知り、まずは新訳聖書の解説本を探したのだった。聖書は流石に世界レベルのベストセラーだけありその解説本も沢山あったが病床の身には軽い本が良いか、と選んだのが同氏の筆による本だった。文章は平易だが聖書からの引用もあり、結局入院中はつまみ食いをしただけに終わった。脳の手術をしてから、強い集中力を維持することが難しくなっていた。

妻にPCを病院に持ってきてもらった。その中に無数にアーカイブしてあるバッハの音楽は入院中によく聞いた。精密にして清澄、宇宙まで広がる音の感覚。とても心洗われるものだった。そんな彼の作品の中の「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」は冒頭のコーラスが重厚にして神妙で、とても心を和らげてくれた。治療終了して1年半。知人の伝手で「ヨハネ受難曲」を全曲通して聴く機会を得た。(*)イエスの受難劇を歌った合唱・ソリスト・オーケストラによる2時間を超える超大作だ。歌われる内容をきちんと知ろうと、再び手に取ったのがこの本だった。

クリスマス、イースター、そしてケルト人がキリスト教化していく中で定着したと言われるハローウィンなど。およそキリスト教には縁のない一般の日本人も何故かそれらを純粋な行事として楽しんでいるが、聖書迄深堀りしている人は少ないかもしれない。聖書は何故近寄りがたいのだろうか。

登場人物が多い。馴染みのない似通った名前。文章が難しい。信じられない出来事も記されているが、一体何を言いたいのか・・。このあたりが直截ではないからだろうか。阿刀田氏はわかりやすい例えやユーモアも挿入しながら要所を抑えて解説している。流石だった。しかしそれを読んでもすんなりと入ってこない。まず人名とその関係性を把握しようと考えた。また、聖書とはどんな構成なのか。それもわかりやすく把握したい。結局、紙の上に登場人物の名前を記し文中に書かれているエピソードを並べてみるのが、一番自分にとっては分かりやすいように思えた。ミクロの集積体をまずはマクロ的に捉えよう、と言う事だった。総てではないが苦労して抽出しただけあり、その部分に関してはおぼろげに関係性が詳らかになった。誤解もあるだろうし自分なりの想像も加わっているかもしれない。二枚の図表を作ってみた。多分正しく文章を拾っていると思うが一部はネットの解説も補完的に加えた。誤った解釈があったら予め謝りたいと思う。

図表を見ながらしかし根本的なところが良く分からない。今更聖母マリアがなぜ受胎したのか、ガリラヤ湖での奇跡は眉唾ではないか。死んだはずのイエスがなぜ復活したのか、という野暮な話ではない。イエスがギデロンの谷からエルサレムに入城した際に、何故簡単に捉えられたか。彼は何をしたというのか。神の子を自ら名乗ったというが、それのどこが悪いのか。イエスは何故反論せず受容したのか。提督ピラトは「彼が有罪とは思えぬ」と何度も主張したが何故民衆はあくまでイエスの有罪を訴えたのか。しかし有罪が確定して磔刑が決まると、今度は慈しみ深いイエス様を讃える。これは民衆の変心なのか、イエスの刑により我が身の安全が担保されたのだろうか。そもそも民衆は一体何に苦しんでいたのか。一帯はローマ帝国の一部でもあった。圧政なのか。

ヨーロッパに住んでいた頃、最後の晩餐も含め各国の美術館で様々な宗教画に接した。多くはグロテスクに思え直ぐに満腹になった。それはイエスやその十二使徒の受難を描く絵が多いからと知った。勿論受胎告知やイエスの誕生も多くの絵のテーマになってはいる。週末は教会の合唱を聴きに行った。いずれも、せめてこの図に書いたレベルの知識があれば、どれももっと楽しかった事だろうと、これも又後悔している。

アメリカやヨーロッパ各地のホテル。出張の荷物を降ろしてベッドサイトの机の引き出しを開けると「必ずある」。聖書だ。しかしそれが旧訳か新訳だったのかも分からない。なぜこんなところにあるのか、と不思議で仕方が無かった。また、大学の掲示板にはいつも週替わりで聖書の引用が張られていた。「コリント信徒への手紙からの引用」・・何の事かもわからずまた興味もなかった。

しかしそれらへの距離が少しだけ近づいた。勿論さわりだけだ。イエスの教えや布教に尽力したペテロ・パウロヤコブ、と言った人々の説いた言葉は分からない。ここから深入りするとしたらなかなか大変なのだろうな、と思う。しかし自分を取り巻く環境も変わり、いつかまた何かに救済を求める日が来るかもしれない。それは妙法蓮華経かもしれないし般若心境かもしれぬが。なんにせよ、学ぶことは楽しい事だった。少なくともこの半月とても熱中して図解まで作ったのだから。

主要キャストをまとめてみた。同名別人もありややこしいが、何となく絡まった糸がほどけた気がする。

聖書自身が巨大な伽藍に思えてどこから手を付ければよいか分からない。しかし構成を図にしてみると、何となくわかる。福音書がまずは重要なのだろうか。母校の掲示板は使徒の手紙を中心に掲示していたのは何故だろう。

愛聴するバッハやヘンデルの宗教曲。手のひらに乗る文庫本は縁遠い世界を少しだけ近づけてくれた。そのおかげか、今度宗教曲を聞く際はやはり歌詞を読もうと思う。

(*)ヨハネ受難曲演奏会についてはこちら

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