日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

アイコンタクト

目は口ほどに物を言う。目を見て人と話す。目力がある。目が座っている。目が輝く。目が泳ぐ、腐った魚のような目をしている…。

さよう、目とは人間の感情を表現するのに一番大切で正直なのだろう。言葉という最強手段を発するツールである口よりも、表現力がある。「君が好きだ」と言っても目が泳いでいたら、誰もそれを愛の告白とは信じない。座ったり、輝いたり、泳いだり、腐ったり、となかなか目も忙しい。顔の中心は鼻だろうがその上にご丁寧に二つあるのが目だ。口も鼻も一つづつだがなぜかしら目と耳だけ二つある。動物として生きるための五感を研ぎ澄ます、そのためには視力・聴力の強化が必要だったのだろうか。おかげで我が家の駄犬ですら、どんぐりまなこで喜怒哀楽を伝えてくる。いずれにせよ目を通じて他人様の心と向き合っているというのは事実のようだ。

ではアイコンタクトが物を言うシーンとはなんだろう。ラーメン屋など典型か。支那ソバなら茹で方と具を乗せる方、味噌ラーメンやタンメンなら茹で方と炒め方。ともにアイコンタクト、「あうん」で動けないとお客様には申し訳ない一杯となってしまう。

「あうん」の究極形は夫婦間の意思疎通だろうか。しかし個々にもよるだろう。すべてが目で通じれば楽だが、我が家では残念ながらそうはいかない。何せ自分のメッセージは大抵の場合家内によって「黙殺」の憂き目に合う。「あうんの呼吸で瞬時に全否定される」という訳だ。

自分も一応はバンドマンの端くれ。下手くそながらのベース弾き。そう、バンドはアイコンタクトが物を言う。曲中の「キメ」、終わりの「シメ」。フロントマンとドラマーとのアイコンタクトは欠かせない。右利きの僕はドラムセットの下手に立たないと怖くて仕方ない。自分がドラマーとアイコンタクトが一番しやすい場所がそこなのだ。尤もそれだからいつまでもB級、いやC級ベーシストなのだろう。達人の域に達すれば呼吸でわかり合えそうだ。

先日見た演奏会では、まさにそんな「達人の意思疎通」に溢れていた。

ソリストは、我が憧れ、マルタ・アルゲリッチ。オーケストラは水戸室内管弦楽団。演目は彼女の自家薬籠中のシューマン・ピアノ協奏曲。久恋の奏者、魅力の曲。

オケのメンバーが揃い、オーボエが柔らかにAを奏でるとコンサートマスターに続いてAの全奏。ここが観客として一番ワクワクする時だ。さて音合わせも済んだ。扉が開き会場がどよめくほどの拍手の中アルゲリッチが入場する。軽く挨拶をしてさっとピアノの前に座る。あれ、指揮者の入場は?と思う間もなく、一瞬にしてオケと彼女の強烈な打鍵で曲が始まった。それは名人のメスのようにその一撃で聴衆のざわめきを瞬時に停止させるほどの鋭さだった。コンマスと一瞬目を合わせただけだった。

呆気にとられた。指揮者をたてないピアノ協奏曲ならばソリストが指揮をする。「弾き振り」というやつだ。しかし指揮者の居ない事は想像していなかった。

ステージの背面の座席だったので、アルゲリッチの豊かな表情と一挙手一投足が目の前だった。コンマスとの間は1メートルも離れていないのか、時折彼女はコンマスを一目見る。彼も即座に呼応する。必要に応じて両者は上半身を近づけあう。息遣い、体の細かな動き。言葉無くとも、目線を交わさなくとも、お互いがそれを感じ取り音楽を進めていく。

凡人ではなく達人同士だから成立するのであろう最低限のアイコンタクト。それは「達人の意思疎通」の技そのもの。そこから紡ぎ出される煌びやかでロマンが横溢する旋律にはただ魅了されるだけだった。

さて、日々を過ごす家庭にて。達人でもなく「アイコンタクト」の目力も十分ではなさそうな自分だ。やはり、目ではなく「言葉」で会話をするのがどうやらお互いに幸せそうだ。

歳をとって活舌は日に日に悪くなっている。そのうち言っている事も理解不能になるかもしれぬ。ああ、家内よ、許し給え。

水戸室内管弦楽団109回目公演は、マルタ・アルゲリッチを迎えシューマンのピアノ協奏曲を演奏した。休憩時間中にピアノが運び込まれる。高まる興奮のひと時。

PS:

シューマンのピアノ協奏曲の動画サイト。過去のブログ記事https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2022/03/29/004358

・同曲動画リンク。ピアノ、マルタ・アルゲリッチアントニオ・パッパーノ指揮、聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団 https://www.youtube.com/watch?v=zsnPzcc1Zb0