週に一、二度、都会に通っている。特急列車で一時間十五分、関東平野の西端の駅に着く。そこから横浜の港へ向かう通勤電車に乗り換えて職場に着く。通勤電車の風景は今も昔も変わっていない。変わったと言えば誰もがスマホを見ているだけで、相変わらずぎゅうぎゅう詰めだ。この路線は都心を目指すのではなく平野の外周を縦に繋ぐ路線なので息苦しさがやや減るだけだった。
会社のある場所は海抜は50メートル程度だろうか。東京湾にそそぐ濁りを含んだ一級河川が流れている。そんな土手の裏手だ。風に乗ってくる生臭い川の匂いを破るように土手を若いランナーが力強く走ってくる。PCの入った重いかばんを肩から下げた自分は少しよろめいて彼に道を譲る。
仕事を終えて駅へ急ぐと西方向に富士山が見える。真正面に丹沢を前衛に従えて堂々としている。しかし今日は富士の山頂間際にほの赤い雲がかかっていた。棘を持った強い風に驚き、空中の水分が同盟を組んだのだろう。その団結の祝いとして残照が赤い紅をその塊に塗ったに違いない。
乗り換え駅は平野の末端にあり、そのあたりから高尾山から陣馬山へそして奥多摩に続く稜線が隆起していく。自分の乗る特急列車はそんな山々の作る細い谷あいを縫うように走っていく。
なんだかひどく疲れる。デスクワークは五年振りなのだから。エクセルを相手に数字を入れて、パワーポイントにその結果とアクションアイテムを貼り付ける。数字はサーバーから拾えばよいが、その数字の成り立ちとこれからの行く先は営業マンにヒアリングをしなくてはいけない。その為にはこちらも勘所を押さえなくてはいけない。思考力も考察力も全く衰えたな、そう思いながらノートに話をメモをしてキーボードを叩いている。
終業時間になり乗換駅からは一時間に一本の特急列車に間に合うべく直ぐに会社を飛び出したのだった。赤い雲を見ながらこんな苦味がわいてくる。今日はこれ以上数字の意味を考えるのは無理だった、と。自分のポンコツぶりが情けないが、少しづつ現役のあの頃の熱気が蘇ってくるようだ。
列車の椅子をリクライニングにして駅で買った缶ビールを飲むと、いつものようにすぐに夢見心地だ。スマホのアラームに頭を揺すられて席をたった。
海抜850メートルの高原。もう十月も終わりだ。都会生活に疲れ人間らしく残りの時間を過ごそうと還暦の歳に移った地だった。目の前の南アルプスはもう漆黒の闇に沈んでいる。妻と犬の待つ家まではあと少しだ。薪ストーブをうまく焚きつけているだろうか。
棘のような冷気が薄手のコートを刺す。「寒いな。全く、堪らない。」 緩い登り坂を歩くとおのずと目線は上を向く。僅かになった街灯も手伝ってか、カラマツ林の影の向こうに星空が綺麗だった。もう吐く息は白い。闇夜でも息の色は見える。毛糸の帽子をかぶり直すとき、気がついた。
白い雲が浮かんでいる
黒い空に浮かぶ雲、その向こうにきらめく星。ここは異世界に思える。昼間ではないのに何故雲が見えるのだろう。月明りか、星のまばたきか、わからない。ただここはあの人混みの街から一時間半離れた場所と言うだけだった。
五年ぶりの頭を使う仕事にとまどいながらも現役時代の熱量が少しづつ戻ってきている。喧騒と雑踏の街から夜空に浮かぶ雲が見える高原まで、僕は往来している。時間と空間を超えて日々を過ごしているのだ。あと何年、こんな生活をするのか、一体どこに行くのだろう。
さぁ明日もまた時空を駆ける列車に乗る。山裾の乗り換え駅からはまた満員電車だ。皆なにを考えて乗っているのだろう。スマホでツィート、ゲームか。息苦しい電車にまた揺られるのか。
体の動くうちは、脳が考えることを止めないうちは・・・。
夜空の白い雲はさきほどと形が少し違う。風に乗ってゆっくりと流れているのだった。
