日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

追憶の百名山を描く(4)・谷川岳

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも体力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい、そんな風に思う。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

谷川岳 (1963m 群馬県利根郡みなかみ町; 新潟県南魚沼郡湯沢町
深田久弥の「日本百名山」にはこう記されている。「これほど有名になった山もあるまい。しかもそれが「魔の山」という刻印によってである・・(中略)・・今日までに谷川岳で遭難死亡した人は二百数十二に及ぶという」 

・・自分も山に興味を持ってから谷川岳にはそんな恐ろしいイメージがあった。実態は谷川岳東壁の大岩壁での登攀中の事故が多いにせよ、実際のところ、日本海の気候と太平洋の気候が競い合う上越の背稜、天候の厳しさはこのエリアの山に足を踏み入れればすぐにわかったのだった。天神尾根はそんな中でも、あまり危機感を感じることなく谷川岳の山頂へ登れるルートかもしれない。私が登った時は、谷川岳からさらに北上し茂倉岳の避難小屋に泊まり、翌日は蓬峠から土樽の駅まで長い道を歩いた。国境稜線を歩いて超えたという満足感が今も心の中にある。この山の暴力的な一面に触れることもなく、始終風に吹かれて、素敵な山だったのです。(1998年9月・歩く)

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当時記した山行記録はこちら http://www.asahi-net.or.jp/~yw7y-zs/8tanigawa.html

久々の皇居ランニング

治療後初めての皇居ランへ。

日比谷のランステ(ランニングステーション)を出てから、皇居の一角迄ウォーミングアップ。外堀沿いに走りはじめました。いつもは反時計回りですが、今回は時計回りで。このルートは三宅坂から半蔵門辺りが一番海抜が高いので、どちらの回り方でも緩い登りになります。今回とった時計回りのほうが登りが楽に感じました。

コロナ期間中はここを走る人はまばらだったのでしょうか。その影響か、平日の昼という事もありますがランナーはさほど多くはありません。時計回りの人は自分以外は皆無です。と思ったら「皇居外周は反時計回りがマナーです」という看板が。何のためのマナーなのでしょう?

竹橋あたりから丸の内のオフィス街一角となります。街の雰囲気も変わり、人通りも多くなりました。お濠の周りは都内有数の桜の道ですがまだ春は浅い。しかし時折寒椿が赤い花を咲かせておりその到来を待っているようです。そうか、今日は冬至でしたね。これから、少しづつ日が伸びていく。待ちわびて花々も、寒椿から梅、梅から桜へと咲変わっていくでしょう。

日比谷公園の一角に戻り5キロメートルのランニングは終わり。コースタイムも発病入院前と変わらないもので、病を経ても昔通りに走れた、そんなことがひどく嬉しかったのです。さぁ、これから巻き返しです。

冬至越え 暖待つばかり 寒椿、そう四季の移ろいに元気づけられた皇居のランニングでした。

(2021年12月22日)

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「丼の中の宇宙」を探す・「丸仙」武蔵小杉

ラーメン。

日本の大衆食文化においてこれほど耳目を集める存在は個人的には浮かびません。自分の中ではカレーは遥かに及ばずラーメンは孤高の存在です。古今、幾多の作品に登場してきました。小池さん、男おいどん。彼らが嬉々として食べていたラーメンは、一体どんなものだったのでしょう。

実写としてわかりやすいメディア登場は「男はつらいよ」でしょうか。寅さんがいつも実家の柴又に帰っては家族といざこざを起こしてしまう。そんな寅さんが出来る事は唯一つ、再び旅に出る。自分自身がすがれるのはそこだけです。啖呵売りの彼は大きなカバン一つで夜更けの上野駅に赴き、駅の食堂で夜行列車が出るまで背中を丸めて器を手にし、すするのです。哀愁が漂ういつものシーン。その器こそがラーメンです。醤油色のスープに黄色い細麺。それは「ラーメン」というか、「支那ソバ」というべきか。どちらでも構いません。小池さんも、男おいどんも、これを食べていたに違いありません。そんなラーメンを自分の理想として、私もそれを探し求めているのです。

ラーメンは器に汁、麺、具。これだけの構成ですが、まさに三位一体のバランスの食べ物。どれが尖っても弱くても残念です。その調和の計らいと小さな器に中でそれがカタチとなっている様は「宇宙」を感じさせます。「器に宇宙あり」。いつしかそんな言葉を編み出し、一人悦に入っている、まぁ変わった人です。

メディアに登場した人気店を辿り歩く、そんな開拓行脚をしていたのは1990年代までで、あとは好きな店をリピートしているだけです。また、ラーメンとのめぐり逢いを求めて自分の知らない場所に赴く事もあります。そんな気に入った店を気の向くままに書いていきたいと思います。これを見ればいつでもそこに行って食べている気持ちになれるように。私と「器の中の宇宙」の架け橋です。

・ラーメン「丸仙」(川崎市中原区・武蔵小杉)

もう25年間以上は行き続けているいつものお店。初めて行った時は家内と二人だけだったでしょうか。そのうち長女が生まれ、三人で行くと一人掛けの丸椅子の間にお店の人が一回り小さな丸椅子を入れてくださいました。そして小さなお椀。中にはコーンが入っていて、お店の心ずかいを感じました。娘が二人になり、4人並んで食べたことも何度もありましたが、やがて娘たちは巣立ってしまい、再び家内と二人だけで食べるのです。

お店の人の符丁ですが。醤油ラーメンは「シナ」で通っています。「ハイ、シナいち。もやし入り」これ、いつもの自分の注文パターンです。長く通っているとお店の方々のメンツや役割が少しづつ変わっていく事に気づきます。それでもしっかり大切な味は維持しているのですね。長い間に味の試行錯誤もあったかと思います。しかし結局原点回帰、いつも美味しい「支那そば」を供して頂いています。今年の初めから春にかけて自分が入院していた病院は偶然にもそのすぐ傍でした。退院した時にいの一番に立ち寄りました。その時はお祝いに背徳の黄色い炭酸飲料をがばがば行きました。あぁこれぞ「娑婆の味」「いつもの味」。自分にはラーメンのグリニッジ天文台のようなモノです。

何時も変わらぬ味を作っていただくお店の人には「感謝」しかありません。「器の中の宇宙」にしてやられました。(2021年4月)

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もやしのトッピングが好みです。とてもいい塩梅の炒め具合です。

変わりゆく街 築地から月島へ

銀座から築地へ、月島へと歩きました。市場が豊洲に移りがらんとなった感がある築地、ウォータフロント人気で新しい世代の街へと変わった月島。どちらも変化を感じさせる街並みです。

築地は、場外市場一帯は残っているのですね。この日は市場も休みの日で開店しているお店は多くはありませんでしたが、いつもの慌ただしさは感じることが出来ました。築地に来た理由はランチ。このあたりに来たら必ず楽しみにしている寿司店で「大名チラシ」というチラシ寿司をご馳走になります。特に車運転の予定もないし、昼間から禁断のビールも出ます。何も言うことのない素晴らしい味でした。

いつもの幸せを味わい、のんびりとぐるり周辺を歩きます。勝鬨橋は変わりません。自分が初めてここを歩いて渡った時にすでに橋の開閉はその役目を終えていました。隅田川の観光船がゆっくりと航跡を伸ばしていきます。水門の奥には屋形船と船宿があり、水の街・江戸。そんな言葉も頭に浮かびます。

晴海にはかつて勤務していた会社の一部の事務所がありました。また当時は展示場と言えばここでしたので、随分と通ったものです。学生時代は展示場でブースの植木レンタルの搬入の仕事などもしていた。そういえば家内がアマチュア無線技士の免許を取ったのも、晴海のどこかのビルだった。もう、ずっと遠い昔の話です。

月島も大きく風景が変わりました。真新しい高層集合住宅が並び、若い世代を応援する様に託児所や保育園もあり、お子さんを載せた自転車やベビーカートも行きかいます。元気そうな子供の声と、それを諭す若いお母さんの声がそこかしこにあります。

ここに来たのはもうこれまたずっと昔。月島には当時、路地裏の写真を撮ろうと何度か来たことがありました。ちょうど一眼レフを手に入れて写真が楽しかった時期です。路地裏にもビルは多く、昔ながらの雑然とした光景も亡くなりました。当時は植木鉢の並ぶ狭い路地によしずを張って、パンツ一丁の親父が朝顔に水をやっている、そんな光景がありました。が、今はもうそれは埋没した記憶の中にしか期待できないのです。仕方ありません・・

名物という海鮮がたくさん載ったもんじゃ焼きを頂きました。すごい具でとても自分では焼けません。お店のお方にお手間をおかけしました。味は流石に素晴らしい。

日はとうに落ち、すると西からの寒風が、もんじゃ焼きストリートを吹きぬけます。商店街のPOPは吹き流しのように風にあおられ、自分と家内もコートをしっかり閉めて逃げるように地下鉄の駅へ向かいました。

変わりゆくエリア。長きのインターバルを経ました。ここは師走の、心の中では江戸と呼んだほうがしっくりする、もう自分には追憶の下町です。

(2021年12月22日・記)

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・築地「寿司清」の大名チラシ
・変わりゆくウォータフロント
・月島には昔日の面影はなかった。商店街を往く人気者の25歳のリクガメ君も時の流れを見ていたのだろう
・帆立あさりネギもんじゃは「まるた」にて

川崎市民のソウル・フード 

最近テレビでも見ることが増えました。このお店のラーメン。なんでも川崎市民にとってはソウル・フードと言います。

自分は市民ではありませんが限りなく生活の拠点は川崎より。もちろん自分の家の周りにも余裕で指が折れるほどあります。このお店。

ただその存在に気づいてから30年近く素通りしてました。なんとなく「チェーン店は、ねえ?」という意識もあったし、「支那ソバ」というカタチが好きなこともありました。このお店はかなりの変化球に思えたのでした。

然し好奇心は抑えることが出来ずにとうとう訪問。看板メニューは「タンタンメン」とありますが、中華料理のタンタンメンではなく独自のものです。赤と黄色。唐辛子みじん切りと搔き玉子がなんともいえない器の風景を作っています。辛さが選べます。家内は普通。自分はその一つ上。さらに二つ上までありましたが、はじめはお手柔らかにです。

出てきた麺は意外にも辛さが前面に出るわけでもなく、食べやすく美味しいものでした。なるほど、これが川崎市民のソウルフードか。私もようやく長い時間をかけて、お世話になった川崎を身近に感じることが出来たように思えます。

川崎市内のコンビニに立ち寄ると彼らは虎視眈々と待っていたのです。追撃の手を緩めることはありませんでした。二の矢と三の矢がすぐに追いかけて飛んできて、私を射抜きました。周到なことに二の矢はカップの中に、三の矢は袋の中に入っていたのです。「おぬしら、やるな」。たまらずに両手を挙げます。迷わずに白旗です。

なるほど、これで自分も家内も骨の髄まで、市民です。「幸福なる降伏」です。ソウル・フード、おそるべし。

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お店で食べたそのすぐ後、カップに入った二の矢と、袋に入った三の矢が飛んできた!

今朝の北岳

今朝は外を歩く時間が遅く空気は霞っぽくなり光線の具合もイマイチでした。もう少し早い時間帯に歩かなくてはいけません。

自宅から見える「甲斐の白根」。堂々と続く北岳から間ノ岳の3000m級スカイラインと久しぶりにお会いしました。今年の2月3月には入院していた病院の窓からずっと見て、いつも力を貰っていました。「早くおいでよ」間違えなくそう私は彼らにそう言われ、導かれるように治療を終えました。

そんな彼らとようやくこの時期に自宅付近からも再会可能になりました。「ご機嫌よう、今日もお互い好い日で」、そんな会話を135キロ彼方の彼らとしました。年末のご挨拶です。

いつかまた、そんな距離を隔てることなく、その上を再び自らの足で歩いてみたい。そんな思いも強く湧いてきます。

いつもありがとう。冬の間だけ見える、懐かしき我が憧れの雄峰群よ。

(2021年12月21日)

 

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一眼のAFが思うように動作してくれませんでした。歯がゆい。次回は早起きしてかつマニュアルフォーカスでトライです。憧れの君だから、念入りに。
OLYMPUS OM-D(EM10) 150mm(300mm@35mm換算)F9 1/400秒 +0.7補正、中央重点測光

鉄の歓び スイッチバックを歩く 長坂駅

中央線。山梨県に入ってからはスイッチバックの駅がいくつかあります。もっともレールは残っているもののスイッチバック自体はもう使われていません。その意味で廃線とも、遺構とも言えます。

暑い盛りには生い茂る夏草に覆われ、北風の季節には寒風に草は枯れ砂利敷の道床も霜に覆われます。レールはとうに赤く錆び、枕木も長い年月をかけて割れていき、全てが崩れていくのです。

そんな侘しさも鉄道の持つ魅力の一面かもしれません。「たけき者も遂には滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」。古来から日本人はこんな万物のうつろいの中に何かを、もしかしたら美しさすら見出していたのでしょうか。

長坂駅です。自分が知る限り、初狩駅韮崎駅。このあたりが中央線のスイッチバック遺構といえば思い出されますが、ここにもありました。

駅舎を後に西へ歩きましょう。駐車場の脇から線路横の舗装道路に出られます。すぐに見つかりました。向かって左に緩やかにRを描いて高度を上げていく本線。そのRを無視するかのように分岐している一本の側線。その側線の途中から今度は手前に向けて一本分岐して、自分の今いるところまでゆるく登りながら伸びてきました。もちろん上には架線もありません。使われなくなって久しいのでしょう。

こんな盲腸線路のレールの端部の処理はいくつかパターンがあります。枕木をレールの上に交差するように無造作に置いているもの。何もしないで盛り土の中に消滅しているもの、そしてどうやるか見当もつかないが、レールを左右併せて綺麗に折り曲げているもの。

このスイッチバックの端部は「折り曲げ」型でした。

おおお、声にならない唸りが出ます。かつてここに入れ替えの車両が来ていたのか。今や車両の動力性能が上がり、もう標高差を稼ぐにも直球勝負で登っていけるのです。

便利になった世の中。失われていく何か。進歩と消滅・・・。

次に訪れた時、この寂れたレールはまだあるのだろうか。時の移ろいは誰にでも平等です。

遺構に背を向けて駅に戻ります。と、背後から鋭いタイフォンの音が聞こえ特急列車が通り過ぎて行きました。それにつられて一瞬強く吹いた高原を渡る風は、トゲが刺さるように冷たいものでした。

「これが生きるという事だよね」そんなセリフが頭に浮かぶのでした。

 

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