日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ハローワーク

昔は「職安」と言われていた。今ではハローワーク。名前が変われば印象も変わる。その建物には以前ほどの悲壮感を感じない。就職した会社で会社人生活を全うする人は今はいかほどの割合だろうか。終身雇用という仕組みは消えた。しかし自分が社会人になった頃は社会は未だそんな神話を信じていた。

都市銀行や証券会社などで不良債権や不正会計などで消えていくものもあったが経営陣は泣く泣く謝っていた。従業員には罪はないと。しかしそこから数十年、今では人員整理や希望退職という名称はよく聞くようになった。会社は存続・発展のためにある。その為にはかなり大ナタを振るわなくてはいけないこともある。バブルの崩壊、リーマンショック、そしてコロナの流布はそんなきっかけだった。また内部統制の崩壊でその選択をせざるを得ない会社もあった。人員は駒だった。かく言う自分もコロナ期の希望退職で辞職した口だった。五十七歳。将来キャッシュフローを試算した。年金事務所で自分の年金の額を再確認した。家計を見直した。早期退職を即決した。

会社都合退職は自己都合退職とは扱いが違う。失業保険の給付期間も長く、再就職すると手当が支給された。国の仕組みとして会社都合退職者には手厚かった。貰うものは貰おうと、ハローワークの門をたたいた。自分は横浜市ではなく隣町、川崎市ハローワークが担当だった。

利益を追求する企業には飽き飽きしていた。自分はそこでメンタルを害した。まだ体も動く。夢だった国際交流や社会福祉の仕事をしたい。そう考え働く事にした。ハローワークは失業保険を貰うだけではなく仕事探しの場所となった。転職サイトは沢山あるが、早期希望退職者には会社は五年間の人材派遣会社のコンサルタントのサービスを与えていてくれた。ハローワークとその人材派遣会社の二つの情報があった。幾つも応募したが引っかかたり外れたりだった。最終面接で落ちた会社もあった。最終的にはその人材派遣会社にコンサルタントとして就職できた。ハローワークの担当者さんに就職が決まったことを報告すると喜んで下さった。親身だった。今度は自分がそんな役を演ずるのだろうと想像した。

人材派遣会社の仕事を辞めたのは予期せぬ病だった。他に選択肢が無かった。病が癒えてからは社会福祉の団体で軽いパート職となった。就職支援同様にこれもまた利益を追求する仕事ではなく人にありがとうと言われる職場だった。病に罹患した際に、残された時間はストレスのない世界で暮らそう、と転居を決めた。社会福祉団体の仕事は意義を感じていたが初めから辞める前提だった。

再びハローワークの門を叩いたのは、新天地での生活も少し落ち着き、自分も社会との接点を持ちたいという渇きを覚えたからだった。どの求人もパートの時給も安く、以前の居住地での高校生の時給よりも低かった。担当者は窓口で端末を叩き三年前の川崎市での自分のデータを引っ張り出してきた。全国で個人のデータベースが共有できる。凄いというか恐ろしいというか、そんな世界だった。国際交流・社会福祉。その希望は三年前のデータベースと何ら変わっていない。

引っ越した地で英語を生かす職場などは子供相手の英語教師以外に無かった。リゾート施設やホテルの接客求人が中心だった。社会福祉の仕事は介護の求人が多かった。自分は介護の資格を持っていない。新しい担当者さんは親身に探してくれた。幾つかヒットした。職種の好みは一致しても勤務条件があわず。あるいはその逆。いずれも帯に短したすきに長しだった。

「どっちがいいかな?どうしたらいいと思う?」丁度その日に遊びに来ていた娘に聞いた。彼女も何時しか三十を超え中堅社員だった。「父がここに引っ越してきた理由は何?やりたいことをやるからなんでしょ」と言うのだった。考え込んでしまった。成程、職種よりも勤務条件か。いや、それ以前か。

少し考えます、と話してハローワークの扉を閉めたのだった。何れの職場でも働く自分の姿を想像した。帰宅してからの疲労具合をも考えた。答えなどでもしない。ここに引越してきた理由に忠実であるべきならば、やるべきは仕事をせずにしたいことをする、小さな夢を育て上げ実現する事なのだろう。

自分の人生なのに、どうすればよいのもわからない。ひどく、もどかしい。