日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

親指サイズ

娘から妻にラインが来た。「円形脱毛症になった」と。それなら自分もなった、直ぐに治るよ、と話したが「相変わらずね。あなた私の円形脱毛症を見つけて指摘したでしょ、結婚前の話よ」と妻は続けたのだった。

すっかりそんな出来事は忘れていた。まだ二十代前半だったのだからか、あるいは交際相手が無遠慮に指摘したからか、確かに彼女は傷ついたのかもしれなかった。

自分の円形脱毛症は明らかにストレス起因だった。三十代の頃、勤務していた会社の事業部はグループ会社との間で事業合併が行われ、外部からの社員が混ざるようになった。異文化交流とは日本人が昔から苦手としていた分野ではないか、まさにそれだった。上司はそんな外部から来た人に変わった。会社文化が違うのか、その人のパーソナリティなのか、曲者だった。トラップを掛けて相手の懐を探るような技を使う。話し方は歯に衣着せぬストレートさがあった。細い目で静かに観察しているようにも思えた。ああ、苦手なタイプだ、とすぐに思った。

彼は自らの名刺にジェイムスというミドルネームをつけ印刷していた。米国人相手の仕事なのだから馴染みやすい名前にしないと、貴方もつけなさい、というのだった。命令に近かった。仕方なく好きなギタリストのファーストネームを拝借した。リチャーズにしようと思ったがそれは彼のラストネームだった。今ではライブの際のステージ名として使うだけとなったが、自分はその時からキースと名乗っている。

小さなストレスを感じていると自分は頭のかさぶたを剥がす。上手く剥がれると気持ちが良い。剥がれた皮膚片は達成感を与えてくれた。仕事中それを無意識にやっていた。するとある個所で指が地肌に触れた。毛根の抵抗がなくすべすべとした感触が指先に伝わった。帰宅して妻に見てもらった。親指大の円形脱毛症だった。皮膚科に行きローションを処方してもらった。効果のほどは憶えていない。

上司はさように癖があったが、外国人相手の交渉では丁々発止を繰り広げる。それは見上げたものだった。アメリカ駐在仕込みのスラングを交えた英語力で、得意のトラップを交えて交渉するのだった。相手のアメリカ人はしばし音を上げていた。自分は相手からから聞かれたことがある。「キース、あのジェイムスは本当に日本人なのか?自分にはそうみえない」と。

始めは円形脱毛症を与えてくれたジェイムスだったがじきに親指禿げの事は忘れた。そして彼はいつか自分の憧れになってしまった。彼の交渉術を身に着けたように思え一人での出張でそんな調子で相手にトラップを仕掛けたら彼らは笑いながら言うのだった。「それは違うよキース、いやミスタージェイムス」と。まだまだ青二才だった。ジェイムス氏に心酔したせいなのか、触ると禿げはもう無かった。はしかみたいなものだった。

妻の十円禿げは何故だったのだろう。それがストレス起因であるとすれば何が思い当たるのか。自分との結婚はその頃決まっていたが、ああこんなに神経質で見栄えの悪い男とは結婚したくないわ、私の理想は包容力があり背が高く足が長いはずなのに、とでも思っていたのだろうか。保護犬だった我が家の犬も引き取ってしばらくしたら頭に十円ハゲを見つけた。彼も新しい環境でストレスがあったのか。娘は娘で、仕事の伸び悩みでもあるのだろうか。会社員としての三十代は中堅として色々悩む時期だから。

ストレスは理想と現実の差を認識する事からも生まれるのではないかと思う。すると高い理想は持つべきではないという考えに至る。更には現状を受け入れれば済むだけの話とも思う。一方で理想を持たないと人は高みに上がれまい。今の自分は頭のかさぶたを剥がすことも無くなった。妻の十円ハゲもその後出ていない。犬はフサフサしている。娘に何か言えたらと思うが何も言うべきことも浮かばない。結局成り行き任せが良いのだろう。親指だけのサイズだ。いずれ元に戻るのだから。

花に水をやると元気に咲く。髪の毛は気楽に過ごしていると元に戻るのだろう。

 

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