仕事から帰宅すると妻が重たい顔をしていた。「あかねちゃんパパが無くなったんだって。あかねちゃんママから連絡があったのよ。まだ六十一歳だって。」
そんな事を言っていた。あかねちゃんとは我が長女と同い年の女の子だった。近所だったのでママ活の公園デビューで知り合った。妻も子供も互いに友達、今でこそ疎遠だが母親同士のネットワークは残っている、そんな関係だった。
ご近所さんに加え妻同士・子供同士が仲が良かったので幼稚園から小学校入学へと交流が続いた。小学校の運動会や町内会の運動会であかねちゃん家族と共に遊ぶことが多かった。ご主人は頭を七・三分けにした真面目そうな方で糊のついたYシャツが印象的だった。縁の小さなメガネが知的な印象だった。会社員ではなく公認会計士でご自宅を事務所にされていた。物腰も柔らかな方だった。彼が鬼籍に入ったのか、年齢は自分と一つしか変わらない、それはすこしばかり衝撃だった。
死因は家内も聞かなかった。しかし友達つながりの情報で肺がんと知った。調子が悪くなり病院に行った時はステージIVで他臓器移転もあり抗がん剤治療も出来ない状態だったと言われたらしい。公認会計士は帳簿の誤りを見つけて正さなくてはいけない。経理と税務の知識が求められる。責任があり気も抜けない。ストレスの多い自営業だったと思う。聞くところでは煙草が欠かせなかったといわれる。逝去された人にムチ打つつもりもないが、ああそれは仕方がないと思った。煙草は吸う本人にはストレスから逃れ気分転換になる。それは単にニコチン中毒であり、禁断症状になってきたところにニコチンを得て生き返るだけの話だ。病が見つかった時にはもう抗がん剤にたえる体力もなかったという事で、最後は自宅で看取られたという話だった。
まだ大学生のお子様がいらした。家内の友人である奥様は途方に暮れているようだった。まず会ってみたら、と勧めたが落ち着くまではそっとしておこう、と当時のママ友連合での話になったという。
自分が悪性リンパ腫から脳腫瘍になり間もなく三年が経とうとしている。罹患は五十七歳だった。五年間何もなければ寛解という。そんなところまで生きてこられたのは今思うと奇跡に近いな、と思う。寛解したとしても、ガンではない全く違う病にかかる可能性もある。そんな中今できる事は何だろう。夢をもって日々を過ごす事、ストレスから離れて過ごす事、毎日笑って過ごしオキシトシンとセレトニンを大量に分泌させる事、そんなところだろうか。その為に自分は退院してからいろいろ取り組んできた。病床は死に毎日接する生活だった。それを通じて自分は健康年齢を無事に過ごせれば、いやまずはあと数年を何事もなく笑って過ごせればそれでいい、抗っても仕方ない、何かあったら受け入れるだけだ、そんな人生観を得た。その為には夢を持った。それはまだ果たせないが少しづつそれに近づいていると思う。すべては良い方向に回るように、と考えた。ガン病棟で浮かんだ事だった。今は年毎、いや半年いや毎月・毎週・毎日ごとにリセットする日々を送っている。
今日は北風が吹く中、この夏に物故した父の墓参りをした。家内と話した。自分達の墓はどうしようかね、と。普段は「墓はいらない。野山に散骨してほしい」と話しているが実際父の墓を見ていると、そんなものだろうか?とどうしたらよいのかわからなくなる。
こうして今でも生きていることは全くありがたかった。いつ何が起きても不思議でもない。それは自分にも家内にも言える話だった。自分がここまで何とか生きてきたのは幸運以外の何でもない。もう一度自分達は今何をすべきかを考えようと思う。ガン病棟にて一度書いたエンディングノートの中身も今なら変わるかもしれない。それもありだろう。
干支が五回回った。その年ももう終わろうとしている。次の一回り迄、何が起きてもおかしくないと思う。この年齢ならではの準備も必要だと思う。残されたものが困らぬように。