日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

病の意味

あれは寒い夜だった。

ずっと頭に違和感を感じていた。再就職した新しい仕事の研修でも集中力に欠けた。ある日歩行中に転倒、その夜は食器を落としてしまい、慌てた妻は救急車を呼んだ。即座に取ったCTで脳腫瘍を告げられたがその辺りの記憶は混然としている。今日であの晩から丸二年が経ったことになる。半年を超える治療を経て、今がある。無我夢中だった。

病の事はいつも頭にある。再び来るかもしれぬという怖れは今の自分の思考回路や行動力の根底に居座ってしまった。毎月経過観察するがそれが全てを解決してくれるわけでもない。しかしくよくよするわけにもいかない。共生するしかない。そんな日々だ。

クルマを運転しながら、隣に座った家内に話しかけた。「ねえ、どう思う?結局自分の病にはどんな意味があったのかな?」と。

すると家内はこう言った。「人と繋がり、繋げるためだったのよ」。そして付け加えた。「繋がったからもう病は来ないよ」と。

言われてみたら確かにそうだと思った。趣味の仲間に加え、学生時代の友人、会社関連の方々…。病床でやったことといえばそんな方々への連絡。話したい、会いたいと思った人たちと急速にコミュニケーションを取った。そして長きのブランクを経て多くの人たちと再会を果たした。いつしかそんな人々はいくつもの輪になった。それは無意識のなせる技だった。そんな友とのつながりが病から立ち直る気力になった。その意味で、病の「ちょっかい」は用無しになったのだ。

病は確かに自分から仕事を奪った。長きその治療で再就職は無かったことになった。今頃はとある町のオフィスで毎日人と面談していただろう。やりがいのある仕事のはずだった。それは無くなったが、代わりに気楽に付き合える世界が増え大きくなった。人々と繋がり、様々な価値観や考え方に触れ刺激を受ける。そこから新しい何かが生まれる。

「繋がっている」。今の言葉を使うならば「Being Connected」だろうか。IOTの世界ではコネクテッドはインターネットにつながっている事、となる。しかしつながる相手はインターネットばかりではないだろう。その本質は「インターネットを手段として社会や人にシームレスにつながる事」と考える。

インターネットにつながった機器、クルマ、家、すべては人の生活を過ごしやすく豊かに楽しいものにするためのもので、それは手段ではないか。豊かさ・楽しさのゴールは自分がネットワークつまりコミュニティ、社会の一部にあるという再認識と、そこでの営みの上に生きがいを見つける事だ、と思う。コミュニティは大切な友人ばかりでなく、社会全般、更には自然や大地もそこに含まれまいか。生きがいと書くと大上段になってしまう。やりたいと思ったことを見つけ、失敗を恐れずにやりとげ、振り返る。そう思えば気楽な話になる。何をやるにせよコミュニティとのかかわりはかかせない。いつも必ず何処かでコネクトされているわけだ。

会社生活では感じ得なかった事。この年になってはじめてわかった事。大切なコミュニティから得たヒントをもとに自分らしさを加えて何かをやっていく。有形無形・自己満足でも良い。これからもそんなつながりの輪を太く広くしていくのは、自分自身。なんとも自由で夢のある話ではないか。

その意味で家内の一言は正鵠を得ていた。ぼんやりとしているように見えて意外に本質を突いている。これも家族という最小限のコミュニティで共に繋がっていたからわかったのだろう。

自分の場合、繋がることは生理が、本能が求めた。サケが川を遡上するかのように。小さなものでも良い。今後も繋がりを少しづつ増やしていく。そう思うと自分の病には意味があったのではないか。

病の意味などできればこれ以上考えたくもないものだ。前向きに捉えればすべてが良い方向に回っていく。そう信じたい。

腫瘍摘出し目覚めたら無機質的な集中治療室だった。隣のベッドからは苦痛の声が漏れ、自分もせん妄に悩まされた。

 

入院して点滴の日々。今思えばそこに大切な意味があったのかもしれない。