日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

余り物は何でも使え

名古屋という街には余り直接的な縁がない。横浜の小学校を卒業した春に父は広島に転勤となった。そこへ向かう途中に何故か名古屋で一泊した。お城は立派だがコンクリート製だった。むしろその堀の中に敷かれていたレールに目が行った。名鉄瀬戸線。電車好き少年はそれにひどく感動した。テレビ塔を見てホテルに泊まった。翌朝そのロビーには当時南海ホークスの監督をしていた野村選手が居た。被っていた巨人の野球帽を取るべきか悩んだがそのつば裏に苦笑しながらもサインをして頂いた。

名古屋は自分が産まれる一年前まで両親が住んでいた街だった。伊勢湾台風がきて鉄筋アパートの鉄の扉がたわんだと母は言っていたが余程凄まじかったのだろう。今は無き姉もその街で生まれた。名古屋を訪れたのは父の懐古かもしれなかった。

大学時代の友人は名古屋出身だった。当時名古屋はちょっとしたブームでエビフライと味噌カツ味噌煮込みうどんなどが有名になっていた。またファーストフードに近い「寿がきや」は関東のスーパーにも出店しており先割れスプーンを使って食べる白いラーメンは美味かった。高校時代に読んだ曽野綾子の「太郎物語」も舞台は名古屋だった。友人の実家には何度か遊びに行った。一通り有名なものを食べたが、食にせよ言葉にせよ街の広告センスにせよそれまで住んできた横浜とも広島とも違う独自の文化や価値観を感じた。

結婚した娘の旦那様も名古屋出身だった。大学まで名古屋に居たという。娘から僕のラーメン好きを聞いていたのだろう、袋麺の寿がきやラーメンは結婚の挨拶にと旦那様が持ってきた品だった。やるなぁと感心した。旦那様のご実家から季節の挨拶が送られてくる。乾麺のきしめん味噌煮込みうどんをありがたく頂戴している。名古屋に再び縁が出来た。

三年前に会社を早期退職で辞め収入はほぼ途絶えた。年金支給までは持久戦、ガタルカナル島の戦いだ。月の予算を決め一日へ落とし込む。その範囲内で暮らすのにはゲーム感覚を持つしかない。気の持ちようだった。足が出る事が多いが何も使わない日もある。激安スーパーで半額シールの総菜や死にかけた野菜、棚ズレ品を買い集める。それで過ごすと数日で冷蔵庫の中はいつも空になる。長期戦となったガタルカナル島は飢餓を産み餓島と呼ばれた。幽鬼の如くやせ細った日本兵は補給をただ待っていた。闇夜に乗じて日本海軍の潜水艦が何度か近づき物資を補給していたが成功率は高くなかった。残念ながら自分は贅肉が豊富だが、それでもそんな日が数日おきに我が家にも来る。買い物に行けば済むのだが雨天で気が重い。乾物も冷蔵庫の中も余り物を使いつくそうと思う。

最期の力を振り絞って昼食を作った。一キロ入りパスタも最後の220グラムだった。ニンニクチューブと鷹の爪は常備していた。トマト1/2個、シメジ少々、玉ねぎ一つが使ってくださいと冷蔵庫に残っていた。ベーコンは冷凍していた。またいつもの味付けでペペロンチーノアリオリオか、と思っていたら目に留まったのが「赤味噌うどんだし」だった。これは頂き物の名古屋味噌煮込みうどんに同封されていた味噌出汁の素だった。あ、これでパスタを作るのも面白うそうだ・・・。

心配はこの味噌が甘しょっぱい事、それにトマトの酸味が似合うかだった。しかしどちらも食べ物だ。余り物は何でも使え、と思った。

塩で下味付ける事もやめ調理酒とパスタの煮汁はいつも通りに使う。一人用の素でパスタ二人前のソースが出来た。見た目は良くないが心配不要、甘みと酸味としよっぱさが上手く混じった味だった。トマトはアクセントだった。ベーコンではなく炒った煮干しを使うのも似合うなと思った。ガタルカナルの守備兵に近かったが辛うじて胃が膨らんだ。単に膨らむどころか名古屋の味は美味しさをくれた。このスープの素はそうは手に入らないが今度はあわせ味噌で出来まいか。

雨も止んだ。さて今からは潜水艦ならぬ車に乗って、買い出しに行こう。

一見ミートソースにも見えるがこれは使い残していた味噌出汁パスタ。名古屋の味を使わせていただいた。余り物は何でも使えという事だ。

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