日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

夜市・台湾的風景

街なかのマクドナルドに入った。眼の前の通りには二階建ての路面電車が走り的士と書かれた赤いタクシーが忙しそうだ。歩く人並みは東京よりも密度が多くざわめく。昨夜に到着した初めての外国、香港の風景だった。朝食にでもと入ったマクドナルドの店員はなにが腹立たしいのかひどく無愛想で怒ったように大声で注文を聞いてくる。僕はなぜ怒られるのかと心が縮んだ。街中の裏路地では屋台が出て誰もがそこに座り粥や麺を食べていた。口角泡を飛ばすように話している。朝から喧嘩なのだろうか。

仕事で中国に行く機会が増えてから判った。彼らは怒っているわけでは無く言葉の持つ発音方法がそう聞こえさせるのだ。大学の第二外国語は中国語を選んだ。四声と呼ばれる発音の四つの基本は学んだが、実際の市井の人々の発音には強さがあった。爆裂音の様に空気を出す。声が大きいのは大勢の中で声がかき消されないように、あるいは明瞭に発音するために、とは何処かの本で読んだ。

シンガポールは屋台街が楽しい。気軽な飲食店街だ。ざわめき、飛び交う言葉、手軽で美味しい食事。ニュートンサーカスなどは観光地化していたが街の人が食べる屋台街ホーカーズが随所にあった。外で食事を手軽にするのは中国人の習慣なのだとこれもまた何かの本で読んだ。

民族としての中国人が住む場所は喧騒と手軽で魅力的な食事が混ざりあった独特の風景がある。

仕事を早期退職して時間が出来た。気になっていた台湾へ行った。ガイドブックには夜市の記載が多かった。夜の屋台街。シンガポールの光景が浮かんだ。あれか。タイペイ市内にも多くの夜市があった。妻の選んだ夜市は繁華街から離れていた。魯肉飯や炒め物、パオツ、魚肉団子汁、飽きたらぬ種類の手軽な料理があり雑踏の中を歩くだけで楽しい。人が並んでいる屋台を選んだ。言葉はできずも漢字が通じる。僕達はノートとペンを持ち歩いていた。二人の旅だ。一つ、二つ、冷たいビール、お会計が言えれば事足りるだろう。イーガ、リャンガー、ビンダーピィジョウ、それにウンゴイマイタン。残りは筆談だった。漢字が中国から伝わったことに感謝した。

できたての熱い料理の載った紙皿はたちどころに僕たちに幸せをくれた。食在台湾と思った。帰路地下鉄への道を歩いているととある女性に話しかけられた。駅わかりますか?と明瞭な日本語だった。喧騒が香港や中国本土より少ないように思えたのは語り口がややソフトで声量も小さいように感じたからだろう。台湾語という単語を現地で知った。本土とは違う。そこに彼らの誇りと自尊を感じた。そして街で見かける日本語看板と老若男女問わずにある程度通じる日本語と彼らの態度に安らぎを覚えた。国家としてのインフラの元を作ったのは日本統治のおかげだと感謝していると何処かで読んだ。がそれはどうだろう?異民族に統治される無念や悔しさは戦後世代の自分には想像できない。しかし土地と人々には親しみがあった。

香港の初めての風景は1980年代だった。最後に行ったのは英国統治が終わってから直ぐだった。活気がなくなり別の国に思えた。シンガポールももう二十年は行っていない。写真で見る「天上のプールがあるホテル」は彼の地のその後の発展を物語る。当時香港もシンガポールも台湾、韓国と並び新興著しくNICS、後にNIESと呼ばれていた。街往く誰もが急いでいた。彼らの経済は登り龍だった。今はどうだろう。

翌朝タイペイ市内を龍山寺まで歩いた。交差点の最前列にはバイクが何十台も我先にとせり出していた。しかし何処かに秩序を感じた。きっと二十年間はもっとガツガツとしていたかもしれなかった。今は成熟した街の風景だった。

今年は辰年なのだ。干支は中国人も日本人にも共通だ。風雲登り竜だな、賑やかな夜市で夕食を取りながらそんな事を考えた。それは、きっと好い話。僕らも登りたい。幸せの登竜門の先で待つものは、何だろう。

夜市は多くの人に溢れ良い匂いが溢れている。ひと気で空気が暖かく思えた。

行列ができる店は多い。活気の中をそぞろ歩きも楽しいものだった。

交差点はバイクが蓋をする。信号が変わると一斉に走り出す。生命力があった。

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