日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

怒る人

「おりゃー何やってんだ。今すぐ窓を開けて飛び降りろ。」そんな怒号が聞こえる。ああまたか、と思う。赤鬼のような小太りの管理職が激しく怒っている。そこは異なる事業部の国内営業部のエリアだった。自社商品以外も、なんでも売ってしまうというその事業部の国内営業部の勢いは半ば伝説でもあり実際会社はその事業部のお陰で売上と利益を確保していた。言う方もイライラするだろうが言われる方も落ち込むだろう。あの剣幕で皆の面前なのだ。

すごいな、自分にはできないな、と半ば呆れ、少しだけ羨望を交えて遠巻きに彼を見る。

上司からの面談は半期に二度。昇給と賞与の伝達があった。その際に自己の人事評価フィードバックがある。そこで自分はよく言われるのだった。「あなたは部下を怒ることがあるのか?」と。それはもちろん答えを知っている上での問だった。答えはいつもノーだったが、怒るときには怒らないと駄目だよ、と指導された。事実自分は部下からは軽く思われている。それは肌身で感じていた。わかる話だが肝心の自分に人を怒って指導するほどの実力も無いことを彼は知っていたのだろうか。いやきっとそれは、しっかり部下を怒れるようになったら一皮むける、そう言いたかったのだろう。怒れるものならそうしたかった。

そこは小さな里山の古刹だった。古びた石段の上に門があった。左右に仁王像が建っていた。古びた木像は朱も剥げかけていた。しかし赤く見えるのは怒っているからだろう。それはあの国内営業部の彼のようだった。その二体は怒りの形相だが体の表情が違う。左手は力に満ちた太い腕筋を伸ばし相手に殴りかかろうとしている。右手はぐっと突き出を腰に引いてなにか怒りを溜めているようだった。ああ、阿吽だな。阿吽。阿形は怒髪天を抜くが如く怒りを全身で表す。吽形は、それを内側に向けて溜め込む。

山門で二体の像は怒っている。それを放出しようと、そして溜め込もうとしている。その怒気に心の汚れた邪悪な者は退けられよう。しかしいつも怒っていると疲れないだろうか。そういえば山麓の神社にも阿吽像が居た。それは狛犬だった。彼らには歯という凶暴な兵器があり、にらまれると尻尾を巻いて逃げたくなるのだった。邪悪な心を持たぬ自分は見事な仁王様の圧を感じながら山門をくぐった。心が綺麗なのか、と安心した。

広辞苑で阿吽と調べる。「寺院山門にある仁王や狛犬の相。一方は口を開き他方は口を閉じる」とだけある。それ以上の解釈は書かれていないが、やはり怒りを放出か、貯めるかのどちらかだろう。我が身を省みてしまう。自分は家では阿像、外向きには吽造なのだと思う。妻や母にはストレートに怒って時に嫌味というスパイスを振ってしまう。他人は自分を概ね穏やかな人間と見るだろう。それは大嘘だった。

阿吽のどちらになるべきか。どちらにもなりたくない。仁王門をくぐり閉じられた本堂を垣間見る。奥に盧舎那仏がいらした。世俗を超越した世界に座っていらした。見た時に思った。あ、成るのならこのお方だな、と。総てを悟った彼は多くの人心を受け入れ、救っているのだろうと思われた。しかしそんな境地へはきっと遠い道だろう。自分の頭の中には世俗の事項が渦巻いている。俗人の極みでありともあの様な表情にはなれない。会社生活を離れたのだから怒る人になる人はもう無いのだ。家人にも穏やかに接しなくてはいけない。

ゆっくりとそうなれば良いだろう。いずれは生きながらに悟り、即身成仏のように果てるのだろうか。

神社にもいらっしゃる。阿吽の犬たち。こちらは一方しか描かなかった。これではきっと怒られるだろう。もう片方も書かなくては阿吽にならないではないか。

里山の古刹にいらした仁王像。二人の怒気は心汚れたものを境内に入れない。入れたという事は自分は綺麗なのだろうか?

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